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雑記

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○高野山調査・冬の陣(1)
 ついに今年も大晦日になってしまいました。時の経つのは早いものです。

 毎度のことですが、今年3度目の高野山調査に行ってきました。今回はちょっと余裕があっため、久しぶりに奥の院を散策してきました。各大名の墓所を回ったため、かなりの強行軍になってしまいましたが…。その一部写真をアップしたいと思います。なお、世界遺産に認定されたこともあり、以前と比べて案内板の数が格段に増えていました。

 武田信玄・勝頼墓
 毎度おなじみ、武田信玄・勝頼の墓所。信玄墓の裏面には、「天正乙亥(三年)三月六日建立」と刻まれています。これは成慶院の『武田家過去帳』の記述と一致。五輪塔の形態からみても、当時のものと考えてよいのではないでしょうか。なお、『武田家過去帳』によると、宿老山県昌景みずから登山して回向を依頼したそうです。長篠の戦いの2ヶ月前のことでした。

 馬場信春墓
 馬場信春墓。信玄・勝頼墓の裏手にあります。「信翁乾忠大居士」という法名は『武田日牌帳(甲州日牌帳) 「二番」』と一致。問題は左右。うっかりしていたのですが、右側に「蓮華院照山慈源大居士」、左側に「□□院紹勇躰生居士」という戒名が刻まれています。この墓の下部に刻まれた字は、残念ながらほとんど読めないのですが、右側の戒名の下には、「馬場民部…」とあります。ひょっとしたら、信春と同時に討ち死にした子息がいたのかもしれません。そうであるとすると、信春の跡をついだ馬場民部少輔は嫡男ではない、ということになります。このあたりの墓石群は、しっかりと調査すべきでした。今後の課題です。

 佐竹義重霊屋
 佐竹義重の霊屋(たまや)。佐竹家墓所のすぐ裏手にあります。柱に、慶長4年10月15日建立の旨が刻まれています。つまり生前(逆修)供養ということになるわけです。

 北条家墓所宝篋印塔
 北条家墓所の片隅にたたずむ、宝篋印塔。形から見て、ある程度古い、と思った貴方は鋭い。寛永20年建立と刻まれています。問題は誰のものか、という点ですが、「天正十…」というところまでは読み取れました。氏政か氏直の可能性があるかもしれません。こちらも、いずれきちんと調査したい墓所です。

 諏方頼忠墓
 諏方頼忠の墓。諏方家の墓所は、かなり狭いところに押し込まれています。明らかに近世に再整理されたもので、ちょっと残念。ただし裏手に、古い五輪塔がいくつかありますので、本来の墓所はこちらかもしれません。

 安達泰盛町石22番
 安達泰盛が建立させた高野山町石(ちょういし)。これは信玄・勝頼墓所の前にあるもので、第22番町石となります。安達泰盛自身が、祖父のために建立したもの。後ろからの撮影になりますので、祖父入道のため、などという文字が刻まれています。

 ちょっと長くなりそうなので、ここで一息。また新年を迎えましたら、改めて御挨拶したいと思います。
(2013-12-31)
○『武田氏研究』45号刊行
 『武田氏研究』45号が刊行されました。

本多隆成(記念講演)「武田信玄の遠江侵攻経路―鴨川説をめぐって―」
柴辻俊六「「甲陽軍鑑」収録文書の再検討」
大木丈夫「武田信虎悪行伝説の形成について」
寺島隆史「永禄の武田将士起請文と岡城」

 武田氏研究会では、総会での記念講演を翌年の総会時発刊号に掲載するのが通例ですが、今回はひとつ早い号の掲載となりました。それもあってか、久しぶりの年内刊行です。次は節目の50号。史料紹介の続きを投稿するつもりでしたが、節目の号となりますと、どうしたものか迷いますね。

(2013-12-20)
○中世武士選書『郡内小山田氏―武田二十四将の系譜―』刊行
 ちょっと刊行から日が明いてしまいましたが、拙著『郡内小山田氏―武田二十四将の系譜―』が刊行されました(戎光祥出版、四六判・306頁・2500円税別)。

 目次は下記の通りです。

第一章院政期・鎌倉期の小山田氏
  1平姓小山田氏の系譜
  2院政期の小山田氏
  3治承・寿永の内乱と小山田氏
  4鎌倉幕府の確立と小山田氏
  5小山田氏の甲斐入部
第二章南北朝・室町期の小山田氏
  1南北朝期の小山田氏
  2平姓小山田氏の由緒
  3室町期郡内小山田氏の歴代
第三章小山田信長・弥太郎と武田氏の内訌
  1小山田信長の動向
  2小山田弥太郎の動向と戦死
第四章小山田越中守信有の武田氏従属
  1武田信虎への服属
  2小山田氏の支配領域
第五章小山田出羽守信有による「月定」朱印の創出
  1出羽守信有の家督相続
  2出羽守信有の動向と内政
  2病気と死去
第六章小山田弥三郎信有の法令と裁判権
  1弥三郎信有の家督相続
  2弥三郎信有の動向と内政
  3病状の悪化と死去
第七章小山田信茂と武田信玄
  1家督相続と信茂の政治的位置
  2小山田信茂の動向
  3武田信玄「西上作戦」への従軍
第八章小山田信茂と武田勝頼
  1武田勝頼麾下の小山田信茂
  2上杉氏との外交担当者
  3武田氏・小山田氏の滅亡
第九章小山田氏の家臣
  1小山田一門
  2家老小林氏
第一〇章滅亡後の小山田一族
  1小山田信茂の子孫
  2小山田信茂の孫娘と高家武田家

 本書は、私が一般向けに国衆論について記した最初の一書となります。

 しかし、難産でした。250頁という御約束で書き始めたのですが、気がついたら350頁にも達してしまい、あわてて削って、300頁ちょいになんとか収めたという感じです。このところ、どうも長い文章を書く癖がついてしまっていて、よくありません。ただ、何しろ院政期の大蔵合戦にはじまって、高家武田家成立前夜まで書いたものですから、スケールとしてはかなりのものだと思っています。また小山田信茂の「名誉回復」に寄与できれなばなぁなどと秘かに思ったりもしています(苦笑)。

 分量が増えた替わりといっては何ですが、かなり気合いが入っています。去年の暮れから、今年の春にかけて、小山田氏ゆかりの土地を電車や高速バスで回り、写真をかなり撮影しました。また、様々な人のご助力もえました。こうして集まった写真も相当な分量になってしまい、これまた選別を編集者の方に御願いしました。ですがその分、このシリーズのなかでは、写真はかなり充実している部類に入ると思います。

 また、出版社に御願いして、小山田氏の家印「月定」の印影を、複数の文書写真から復元してもらいました。「月定」朱印は、必ず文字と重なっているため、完全な印影がありませんでした。それを今回復元してもらい、裏表紙に使った次第です。ちなみにカバーの見返しには、「信茂」朱印の印影が印刷されています。

 いつものことですが、よろしく御願いいたします。
 
(2013-12-12)
○文章の書き方
 twitter上で、私が編集者として文章を見る時のポイント、というのをいくつか呟いたところ、予想だにしない反響がありました。まあ論文というものは、普通の文章とは少し違ったものですし、大学の演習でもあまり書き方を教わることはありません。そこで生意気極まる話ですが、私なりの文章のチェックポイントをまとめておきたいと思います。とはいっても、私のオリジナルではありません。学部生の時に先輩からたたき込まれたものを、自己流にアレンジしたものです。

 ◆ひとつの文章が長すぎないか
 これはかなり重要なポイントです。ひとつの文章を長く書くと、主語と述語・目的語の対応がおかしくなったり、能動態と受動態が混在したりといった問題が生じがちです。複文・複々文は出来る限り避け、単文を中心に構成したほうが安全なのです。長文を使う時は、きちんと主述が対応しているかを確認してください。
 なお、一段落がひとつの文章で構成されるというのは最悪です。文章を分けることを考えた方がよいでしょう。

 ◆無駄な修飾語句はないか
 上と関連します。修飾語句が増えていくと、やはり主述関係がおかしくなりがちなのです。一度修飾語句をすべて削除してみて、主語と述語がきちんと対応しているかを確認してみてください。「〜の〜の」など似たような表現が連続するのも見た目がよくないでしょう(最近のワープロソフトでは注意がでるかも)。必要な説明が長くなる場合は、独立した文章にすると読みやすくなるかもしれません。
 また、そもそも不要な言い回しを使う事例も多いです。たとえば、「であるということを」という表現には、余計な語句が含まれています。「という」はなくても良いですよね。「であることを」でいいでしょうし、もっと短くできるかもしれません。

 ◆順接の「が」を使っていないか
 「が」という助詞は非常に使い勝手が良く、文章を接続していく時に多用されます。ただちょっと待って下さい。「が」を使って文章を接続していくと、どんどん長くなってしまうのです。これは文章の構成を複雑にしかねません。ですから、助詞の「が」を使う場合は、逆接の時にしぼることをお薦めします。

 ◆順接の接続詞を使いすぎていないか
 順接の接続詞は、実は使わなくても意味が通じます。あまり多用すると、かえって文章が読みづらくなることがあるのです。意味を取り違えやすい箇所や、強調したい箇所に限定して使用することで、自分の主張をより明確にできる場合があります。

 ◆同じ表現を多用していないか
 近い場所で同じ表現を繰り返し使うと、正直見た目がよくありません。「したがって〜〜」「したがって〜〜」「この〜〜」「この〜〜」というのはできれば避けたいものです。また少し文章に慣れてきたら、文末も「である」ばかりではなく、変化をつけることを検討してみてください。文章の見栄えがぐっとよくなります。

 ◆註釈はきちんと書けているか
 註釈をつける場所というのも実はポイントです。先行研究整理で、「〜〜氏の研究がある」に註をつけるのは基本です。ですが、「〜〜従来の研究成果は多いとはいえない」に先行研究の註をつけたらどうでしょう。実りの少ない論文だと名指しをしたようなものです。あまり気持ちよくはないですよね。
 その上で、註釈のスタイル統一に注意してください。日本史の論文なら、著者名「論文名」(『収録著書・雑誌名』、出版社《雑誌の場合は省略》、出版年。初出年)など書き方には一定のスタイルがいくつかあります。史料典拠も、「○○家文書」(『史料集名』文書番号またはページ数)などが一般的でしょうか。この統一に気を遣わない人は少なくありません。これに気をつけるだけで、「この人はきちんと他人の論文を読んでいるな」ということが伝わってきます。

 ◆「はじめに」と「おわりに」の対応は取れているか
 論文なのですから、「はじめに」で問題を提起し、「おわりに」で回答を提示する形が基本です。ところが、この対応が取れていないことが非常に多いのです。「はじめに」「おわりに」は最後に見直さないといけない重要な部分です。「はじめに」を最後に書く、というスタンスの人がいるのはこのせいです。

 ◆自分の意図が伝わる文章を書けているか
 論文は小説とは違います。美文を書くことが目的ではありません。また、想像の余地を残されても困ります。自分の言いたいことがきちんと伝わる文章が書けているかチェックして下さい。複数の意味に取ることができてしまう文章、何を言いたいのかよくわからない文章に、編集者・査読者は頻繁に遭遇します。
 意味さえきちんと伝われば、はじめは下手でもいいのです。書き慣れれば、だんだん自分なりの文章がつかめるようになります。

 ◆図表は論文のなかで活かされているか
 最近はパソコンソフトが使いやすくなり、図表を多用した論文が増えました。ただ、残念ながら「不必要な」図表が多いというのが現状です。図表を使う場合は、必ず本文中で活用して下さい。論文の作成過程で作った表を付けることには、何の意味もありません。

 ◆印刷して読み直しているか
 パソコンの画面で文章を読んで終わり。これは最悪です。何度もプリントアウトして、紙媒体で推敲を加えて下さい。論文だけではなく、どんな文章でも絶対に必要な作業です。画面でチェックするだけでは、絶対に見落としがでます。


 ・・・色々と偉そうなことを書いてしまいました。汗顔のいたりですが、御容赦下さい。あと、適宜修正・追加をする可能性があります。
(2013-11-08)
○『年報三田中世史研究』20号の刊行
 慶應中世史の院生同人誌、『年報三田中世史研究』20号が刊行されました。20号ということで、いつもより分厚くなっています。

奈良・平安前期の流罪に関する小考山下紘嗣
中世前期における「管領」―鎌倉・室町幕府「管領」研究のための予備的考察―桃崎有一郎
中世の戦争をめぐる法慣習の心性―神社への避難・隠物と竹木伐採禁制を中心に―下村周太郎
中世後期官務・局務の文庫と公武政権丸山裕之
大乗院尋尊と東林院尊誉―興福寺東林院主職の相承と尋尊・尊誉による再興―大薮海
【史料紹介】高野山金剛三昧院所蔵『奥平家中集位牌帳』丸島和洋

 拙稿は、恒例の高野山の調査成果報告です。今回の位牌帳は、金剛三昧院の近世文書の山の中から見つけ出しました。おそらく、金剛三昧院に合併された中性院のものでしょう。奥平家の菩提所は、中性院だからです。ですので、前号で紹介した『奥平家過去帳』とセットになるものといえるでしょう。今回も、戦国期の記載が少しあります。奥平家の家臣団研究の一助となれば幸いです。
(2013-09-30)
○『本 読書人の雑誌』エッセイのウェブ公開
 『本 読書人の雑誌』2013年9月号に掲載された拙文「歴史研究者と戦国大名の距離感」が、講談社・現代ビジネスのwebサイトで公開されました。

 軽いエッセイなのですが、お暇な時にでもお読みいただければと思います。気恥ずかしい内容なので、ちょっと戸惑いもありますが…。
(2013-09-03)
○『戦国大名の「外交」』の発売
 拙著『戦国大名の「外交」』(講談社選書メチエ、四六判・272頁・1700円税別)の発売日が近づいて参りました。一足早く、今日、見本誌を頂戴いたしました。

 それで、表紙を見て、アッと思いました。この表紙は、武田信玄像・北条氏康像に両者の花押を添えるというデザインなのですが、武田信玄像がこちらが依頼したものと異なっていたのです。

 高野山霊宝館には、成慶院本と持明院本の二幅の武田信玄像が寄託されています。そのうち、表紙には持明院本をと編集部に頼んだのですが、途中で編集者の異動が起こるなど慌ただしいなかで、伝言ゲームが起こってしまったようなのです。

 ご承知の方も多いかと思いますが、成慶院本には、像主が誰かをめぐって論争が存在します。私には絵画史料を判断する能力はありませんので、信玄像を用いる際には中立的な立場を表明するために、持明院本の使用を常としています。ただ、この点(霊宝館に二幅ある点などもろもろ)を編集部にうまく伝えられていなかったようで、成慶院本の掲載となりました。私のほうも、本文の校正に集中してしまい、表紙の校正まで要求はしておりませんでした。一度見せて欲しいと頼めば良かったのですが、表紙は完成後のお楽しみにしておこうと思ったのが良くなかったようです。

 これですと、私が成慶院本の像主について意見表明をした形になってしまい、ちょっと困った事態になったな、と思っている次第です(繰り返しますが、私には絵画史料の像主を判定する能力はありません)。ですので、ここに簡単な経緯を記させていただいて、誤解を招いたことをお詫び申し上げたいと思います。
(2013-08-05)
○拙著『戦国大名の「外交」』の校了
 8月9日(金)に、講談社選書メチエとして拙著『戦国大名の「外交」』が刊行されます(四六判・272頁・1700円税別)。編集者の方の協力もあり、何とか無事に校了いたしました。

 ちょっと気が早いですが、先行して目次を公開したいと思います。

 ※小見出しを追加・修正しました(2013-07-29・08-05)。

序章戦国大名という「地域国家」
第一章外交の作法
  1同盟・和睦と大名の面目
  同盟の呼び方/駿相同盟崩壊の背景/戦国武士の名前/外交責任者「取次」と半途での交渉/取次を介した交渉と「中人制」
  2起請文の交換
  起請文の作法/特殊な神文
  3同盟の成立と崩壊
  国分協定/姻戚関係の構築/「手合」という軍事支援/同盟の不安定さ/「手切之一札」
第二章外交による国境再編
  1国分――国境の再編協定
  「国郡境目相論」/同盟交渉と国分/国分による「転封」と国境の再編
  2国衆の両属
  国衆離反が招く戦争/両属という事態/両属の解消―武田・織田衝突の契機
  3村落と戦争
  村落の外交と禁制の獲得/半手村落の設定/境目の村落が生み出す戦争/戦国大名領国における「平和」
第三章外交書状の作られ方
  1書札礼とは何か
  外交書状と書札礼/料紙の使い方
  2取次書状の作られ方
  取次の設定と外交書状の組み合わせ/「二重外交」への危惧/同じ右筆が書いた外交文書/外交書状の内容指示/取次に対する副状作成案提示/外交書状の運ばれ方/取次の決定経緯/取次副状案の外交相手への転送
第四章取次という外交官
  1武田氏・北条氏の取次の構成
  武田氏外交の取次/北条氏外交の取次
  2当主側近の外交参加
  側近による外交書状の披露/外交相手にとっての側近の存在意義
  3一門・宿老の外交参加
  「家宰」という存在/武田家における板垣・甘利氏――偏諱からみる家格/一門・宿老の起用と大名書状の「保証」/一門・宿老の安定性/もうひとつの理由――「指南」と「小指南」
  4「取次権の安堵」
  分国法と取次の権限/取次同士の内々の交渉/取次に対する進退保証/取次権の知行化と安堵/取次変更のトラブルと配慮
第五章外交の使者
  1使者の人選
  武田氏外交の使者/将軍上使の起用/在京雑掌/山伏の派遣
  2使者の危険性と路次馳走
  使者捕縛指令――使者通過の困難さ/境目の城代の路次馳走/境目の責任者たちの判断
第六章外交の交渉ルート
  1越相同盟の成立と二つの手筋
  越相同盟におけるふたつの「手筋」/越相同盟交渉と関東政治史の大転換/北条氏照の独自行動
  2手筋の統合
  新「由良手筋」の誕生/取次のバランス――カウンターパートの設定/手筋統合の実態
  3越相同盟の崩壊
  北条氏照書状の回覧/上杉氏外交と氏照書状の位置/北条氏照への配慮/越相同盟交渉の頓挫/越相同盟破棄と取次のその後
第七章独断で動く取次
  1取次島津家久の独断
  阿蘇氏従属交渉と取次島津家久の予備交渉/難航する交渉/島津氏譲歩の背景/有馬晴信と合志親重の従属
  2島津家久の裏の動き
  崩壊寸前の豊薩一和/入田宗和の従属申し出/田中筑前守の虚言と島津家久/取次島津家久の暗躍
  3過激化する取次
  豊薩開戦の談合と秀吉の停戦命令/上井覚兼の取次化/秀吉による九州国分裁定と豊薩開戦の決定/島津義久の方針転換と困惑する取次たち/取次たちの積極策/過激化する取次上井覚兼/島津義久の激怒/大名と取次の意向の乖離
第八章取次に与えられた恩賞
  1他大名から与えられる知行地
  伊達家臣小梁川宗朝に与えられた知行/上杉家臣北条高広に与えられた知行
  2「取次給」の宛行
  北条氏の「他国衆」小山田氏/『役帳』の記載と北条氏に対する取次/「取次給」という理解
  3国衆側の取次への接し方
  国衆側の取次と大名の関係/国衆側取次に期待されたもの/国衆従属に対する「恩賞」
終章戦国大名外交の行く末
  1戦国大名の取次化
  室町幕府からの連続と非連続/戦国大名の取次と豊臣政権の取次/戦国大名自身の取次化/豊臣政権の取次と戦国大名の指南
  2国分協定から「惣無事令」へ
  外交からみる戦国大名権力の特色/室町幕府将軍の和睦調停/織田政権の和睦調停/天正壬午の乱/「信長如御在世之時候、各惣無事」/「惣無事令」をめぐって/沼田領問題/「惣無事令」による裁定

 内容は、拙著『戦国大名武田氏の権力構造』(思文閣出版、以下旧著)の第一部(および終章の一部)をもとに、増補して一般の方向けに書き直したものとなっています。ただし政治史的な話は、甲駿相三国同盟を軸としており、甲越同盟と甲佐同盟を軸にした旧著とは話を入れ替えています。旧著の段階とは、見解を修正した部分もあります。

 なお第一章から第三章第1節、および終章第2節は、ほぼ完全な新稿です(少し『別冊太陽 戦国大名』を元に書いた部分もありますが)。旧著をお読みいただいた方も、御覧いただけると幸甚です。

 正直なところ、メチエとしては、ちょっと章立てが多いかもしれません。そのためもあって、予定より頁数が増加してしまい、その分価格も少し高くなってしまいました。これについては、見通しの甘さをお詫びするしかありません。

 8月の刊行まで、今暫くお待ち下さい。
 
(2013-07-24・07-29・08-05修正)
○『武田氏研究』48号刊行
 『武田氏研究』48号が刊行されました。今号は、故・秋山敬前会長の追悼号となっています。

故秋山敬氏を偲ぶ清雲俊元
秋山敬氏を偲んで柴辻俊六
甲斐・信濃における「戦国」状況の起点―秋山敬氏の業績に学ぶ―家永遵嗣
東海地域における戦国大名の諸役賦課―今川・武田・徳川領国を事例として―鈴木将典
色川三中旧蔵本『甲乱記』の紹介と史料的検討丸島和洋
『当代記』研究ノート―時間的文言の分析(巻三〜九)―太向義明

 拙稿は、武田氏滅亡の過程を描いた軍記物『甲乱記』の最善本(写本の写)を紹介するとともに、流布本(版本)との違いについて検討したもの。かなりマニアックな内容になっています。ただ、『甲乱記』を全文翻刻したので、かなり疲れました…。軍記物というと敬遠されがちですが、大名の滅亡記は意外と使えるものがあるのではないかと思っています。そういう史料学的検討もあわせて加えました。御味読いただければと思います。

 そろそろ拙著『戦国大名の「外交」』(講談社選書メチエ)の刊行情報が出始めたようです。現在、8月刊行に向けて鋭意努力中です。今暫く、お待ち頂ければ幸いです。
(2013-06-29)
○『四国と戦国世界』刊行
 四国中世史研究会・戦国史研究会編『四国と戦国世界』(岩田書院)が刊行されました。2012年8月18日に行われたシンポジウム「四国をめぐる戦国の諸相」を活字化したものです。

 目次は下記の通りです。

戦国の活力―東瀬戸内地域の視点から―山田邦明
戦国大名武田氏と従属国衆丸島和洋
足利義稙後期の幕府政治と御内書・副状浜口誠至
織田・羽柴氏の四国進出と三好氏天野忠幸
毛利氏と長宗我部氏の南伊予介入山内治朋
全体討論 
四国戦国期研究文献目録 

 お恥ずかしいことに、早速訂正。拙稿で武田氏と今川氏の同盟を天文5年と書いてしまったのですが、これは6年の誤りです。まあ5年段階で関係は好転するので、完全な間違いではないのですが…。思い込みというのは恐ろしいものです。ちょっとチェックすれば済んだものをと悔やんでも仕方ありません。幸いなことに、論旨には影響はありませんが。

 なお、拙稿は「四国と関係ないじゃないか!」と言われそうですが、ちょこっとだけ四国に触れています。本当に少しですが。

 このところ、著書の校正に追われています。ようやく、本二冊の初校を返したところで、ひとときの休息。両書の再校がいつ戻ってくるか、ちょっとどきどきしています。タイミングが重ならなければ良いのですが。どういう本かは、早ければ来月にはご報告できるかと思います。しかしわれながら、相変わらず初校は直しが多すぎます。これまたお恥ずかしい限りです。編集者の方に、陳謝。
(2013-06-22)
○柴辻俊六『戦国期武田氏領の地域支配』受贈
 柴辻俊六氏より、御高著『戦国期武田氏領の地域支配』(岩田書院)をご恵贈いただきました。

 2004年から2013年に発表された諸論考と、新稿1本(「西上野領の支配」)によって構成されています(ひとつの論文が節あつかいになっています)。写真もふんだんに使用されており、武田氏研究の基礎文献となることでしょう。注目は、第二章第一節「史料編纂と古文書研究」です。柴辻氏は、体系的な戦国大名古文書論を発表している数少ない研究者です。その氏の古文書学に関する最新の知見をまとめたものであり、広く戦国史研究者が確認すべき論考といえるのではないかと思います。
 この場を借りて、厚く御礼を申し上げます。

(2013-06-11)
○武田氏研究会記念講演会の御案内・2013
 以下の日程で、武田氏研究会の記念講演会を行います。

  日 時:2013年6月15日(土)午後2:40〜4:30
     ※受付は午後2:20より開始します。
  会 場:帝京大学文化財研究所
  講演者:本多隆成氏
  題 目:「武田信玄の遠江侵攻経路―鴨川説をめぐって―」

 なお、参加費無料・事前申し込みも不要です。振るってご参加下さい。
(2013-06-02)
○『山本菅助の実像を探る』刊行
 戎光祥出版より、山梨県立博物館監修・海老沼真治編著『山本菅助の実像を探る』が刊行されました。

 同書は、2008年に群馬県安中市で存在が確認された「真下家所蔵文書」および2009年に所在が確認された「沼津山本家文書」という山本菅助家の家伝文書をもとに、『甲陽軍鑑』に登場する「山本勘助」の実像に一次史料から迫ったものです。
 中核となっている論考は、2010年6月26日に行われたシンポジウム「山本菅助再考」の報告を元にしています。本書校正中の昨年12月、真下家において追加文書1点がみつかり、慌てて可能な限り本文に反映するなど、本当に最新の成果をご提示させていただいたものとなっております。口絵には、「真下家所蔵文書」および「沼津山本家文書」のうち中世分がカラー写真で掲載されています。

第1部 論考編
山本菅助に関わる新出史料の調査と概要海老沼真治・佐野亨介
山本勘助・菅助研究の軌跡平山優
山本氏の系譜海老沼真治
武田家臣山本菅助とその子息丸島和洋
徳川家康に仕えた山本氏柴裕之
山本菅助一族とその時代―乱世から太平の世へ―平山優
再考「菅助」と「勘助」海老沼真治・平山優
第2部 資料編
山本菅助略系図 
山本菅助関係年表 
山本菅助史料集 
新史料紹介 真下家所蔵文書 武田家ヵ朱印状・山本家系譜海老沼真治
山本家系譜 翻刻 

 私は、武田家臣時代の山本菅助について執筆させていただきました。具体的には、「山本勘助」のモデルとなった初代菅助、長篠合戦で戦死した二代菅助(初代菅助実子)、初代菅助の婿養子十左衛門尉の武田家臣時代についてです。

 おそらくですが、本書のメインとなるのは実は私が執筆した武田家臣時代の話ではなく、平山さんが執筆された近世初期における山本菅助の子孫の仕官活動と武田氏旧臣ネットワークの研究となるでしょう。何しろ武田家臣では非常に珍しい「家伝文書」の発見ですから、そこから論じることのできる話は尽きません。本書は、そのはじめの一歩を記したものとなります。

 しかしかつて「架空の人物」呼ばわりされた山本勘助が、もっとも豊富な「家伝文書」を伝える武田家臣となるとは、世の中何が起こるかわかりませんね。
 なお、本文中で触れられている「真下家所蔵文書」調査の様子は、NHK山梨で放映されましたので、山梨県にお住まいの方は、御覧になっているかもしれません。
(2013-05-27)
○『岩付太田氏』刊行
 戦国大名と国衆シリーズの最新刊、黒田基樹編著『岩付太田氏』(岩田書院)が刊行されました。

 このシリーズは、『戦国大名論集』を受け継ぎ、戦国大名・国衆研究に不可欠な論文(ただし著者の論文集未再録のものに限る)を再録し、それに編者の総論を付したものです。早いもので、もうシリーズ12冊目になりました。
 店頭に在庫が並ぶまでは、まだしばらくかかるかもしれませんが、よろしく御願いいたします。

(2013-05-10)
○武田氏研究会シンポジウム「戦国大名武田氏と地域社会」
 武田氏研究会で、シンポジウムを開催することになりましたので、御案内申し上げます。

 タイトル:「戦国大名武田氏と地域社会」

 日時:平成25年5月19日(日) 13時半〜17時
 場所:帝京大学文化財研究所
 (住所:〒406-0032 山梨県笛吹市石和町四日市場1566)
 (電話:055−263−6441)
 交通:JR中央本線 石和温泉駅下車 徒歩25分 タクシー5分
 参加費:無料
 ※参加資格はとくにありません。振るってご参加ください。

【第一部】 
 研究報告13時半〜15時半
(1)小笠原春香「武田氏の外交・戦争と境目地域―遠江高天神城を中心に―」
(2)小川 雄「武田氏駿遠領国化と海賊衆」
(3)小佐野浅子「武田氏の駿河領国化と富士信仰」
(4)長谷川幸一「武田領国における修験―「当山」方修験を中心に―」
  《休  憩》
【第二部】 
 パネルディスカッション16時〜17時
司会:丸島和洋 

 このシンポジウムのために、1年間準備を続けてきました。今回、私はバックアップに回りますが、よいシンポジウムになると期待しています。報告者は、みな1980年前後生まれの新進気鋭の若手研究者揃いです。
 よろしく御運びいただけますよう、お願い申し上げます。

(2013-04-25)
○『足利基氏とその時代』刊行
 直接関わっている本ではないのですが、戎光祥出版より、関東足利氏の歴史第1巻として黒田基樹編『足利基氏とその時代』が刊行されました。

 なぜここで取り上げるかといいますと、甲斐は鎌倉府管国でして、甲斐守護についても検討がなされているからです。室町期の武田氏はほとんど史料が残されておらず、鎌倉府の政治情勢を丹念におって、それと関連づけて考察するという作業が必要になります。そのために不可欠の一書といえるでしょう。

足利基氏杉山博(再録)
鎌倉公方基氏の成立植田真平
畠山国清の乱と伊豆国杉山一弥
上杉憲顕と岩殿合戦石橋一展
足利基氏発給文書に関する一考察角田朋彦(再録)
基氏期の奉行人植田真平
基氏期の上杉氏黒田基樹
足利基氏の妻と子女谷口雄太
足利基氏略年表植田真平

 しかし足利基氏で一書が編纂されるとは、時代も代わったものです…。

(2013-04-19)
○いまさらながら再宣伝 『別冊太陽戦国大名』
 色々と宣伝することが貯まりつつあるのですが、もう少しだけ間が空きそうなので、3年前に刊行した黒田基樹監修『別冊太陽 戦国大名』(平凡社、2010年)の宣伝をば。
 この本、ヴィジュアル誌ではあるのですが、中堅・若手研究者だけで執筆した本格的な戦国大名論となっています。そのうえ、「ともかく分かりやすい文章を!」という編集部と、「(図版はいいから)もっと文字数が欲しい!」という執筆陣の駆け引きの末、『別冊太陽』シリーズでは過去最多の文字数で、かつ写真も多く掲載したボリュームのある本に仕上がりました。

 いずれにせよ、戦国大名論の最新の知見を示した入門書として、幅広くお薦めできるものだと思います。

 目次は以下の通りとなっています。

□いまもっともリアルな戦国大名の姿黒田基樹
地域別 戦国の城・合戦地図
戦国史年表
□戦乱の世の兆し 〜一四四一(嘉吉元)年
戦国時代はなぜ生まれたのか 兵士はどこからやってきたのか黒田基樹
室町幕府とは何か天野忠幸
室町幕府と鎌倉府の戦い それぞれの内紛天野忠幸
〔トピック〕土一揆 都市の富を狙う集団長谷川裕子
〔トピック〕徳政 戦国時代の金融政策長谷川裕子
〔トピック〕村同士の戦争 権威を動かす村の政治力長谷川裕子
□下剋上の嵐 一四四一(嘉吉元)〜一五五八(弘治四・永禄元)年
戦国大名の成立 彼らはどこからやってきたのか黒田基樹
応仁・文明の乱天野忠幸
関東戦国時代の幕開け丸島和洋
〔コラム〕伊勢宗瑞の伊豆経略丸島和洋
細川氏の栄光と内紛天野忠幸
〔トピック〕大名の城、村の城 城維持のしくみ長谷川裕子
東アジア世界の変容と中国地方・九州北部の諸勢力村井良介
〔トピック〕撰銭 大名たちを悩ませた貨幣問題長谷川裕子
北方の戦国史丸島和洋
〔トピック〕伊達氏の台頭丸島和洋
京都制圧、三好政権の樹立天野忠幸
□群雄割拠のとき 一五五三(天文二十二)〜一五八〇(天正八)年
領国支配構造の転換 戦争しながら社会をどうつくるのか黒田基樹
同盟とは何か 甲駿相三国同盟の成立丸島和洋
川中島の戦い丸島和洋
〔トピック〕越相同盟と佐竹氏・里見氏の台頭丸島和洋
信長の京都上洛柴裕之
毛利氏、中国地方を制覇村井良介
〔トピック〕桶狭間の戦い 今川義元はなぜここにいたのか柴裕之
信長包囲網の形成と室町幕府の滅亡柴裕之
長篠の戦い柴裕之
石山合戦 戦国大名と宗教柴裕之
〔トピック〕傭兵 戦場を渡り歩いたプロ集団長谷川裕子
〔トピック〕南蛮文化 大名たちを虜にした西欧の思想長谷川裕子
〔コラム〕安土築城柴裕之
〔コラム〕鉄炮伝来長谷川裕子
□天下一統への道 一五八二(天正十)〜一六一五(慶長二十・元和元)年
近世平和への展開 兵士はどこへ消えたのか黒田基樹
信長から秀吉へ 本能寺の変、賤ヶ岳の戦い木下聡
小牧・長久手の戦い木下聡
秀吉の関白任官 豊臣政権の樹立木下聡
〔トピック〕刀狩り 百姓の武装解除はパフォーマンス!?長谷川裕子
〔トピック〕人掃令 政策の裏に見える秀吉の思惑長谷川裕子
四国平定戸谷穂高
九州平定戸谷穂高
関東・奥羽平定 「天下一統」の完成戸谷穂高
〔トピック〕秀吉に服属した大名の危機感 南部信直の場合丸島和洋
秀吉の朝鮮出兵 文禄・慶長の役(壬辰倭乱・丁酉再乱)戸谷穂高
〔トピック〕大名と茶の湯戸谷穂高
徳川幕府の樹立、豊臣家の滅亡戸谷穂高
〔コラム〕薩摩藩の琉球出兵戸谷穂高
〔コラム〕兵農分離はあったのか黒田基樹
参考文献

 今、別件でまた戦国大名特集号への執筆依頼を受けています。これは夏頃に、ご報告が出来ると思います。戦国時代の研究は、90年代に入ってから飛躍的に前進しました。その成果の一端を、お伝えできればと思っています。

(2013-04-10)
○軍配者のはなし
 先日、『歴史読本』5月号(新人物往来社、現中経出版)に「戦国時代に「軍師」はいたのか?」という原稿を書かせて頂いたという話を書きました。今回はその余談といいますが、「軍師」としばしば混同される「軍配者」のエピソードを少し。元となる史料は、『上井覚兼日記』です。なお「軍配者」について説明すると、戦争における吉凶を占う役割の人間を指します。「軍師」の一種とする見解に、私が反対しているのは幾度も述べた通り。

 天正13年8月、島津氏に従属していた肥後国衆、阿蘇惟光は大友氏に内応して島津氏を離反します。もっとも、この時阿蘇惟光はまだ四歳ですので、実質的にこの離反を主導したのは宿老の甲斐親英でした。阿蘇氏の攻撃により、島津方の花之山城が落城します。当然ながら、島津氏は阿蘇領に対して反撃にでることになります。目標は、阿蘇領の南端にあたる堅志田です。
 

 堅志田攻略の準備を進めていた閏8月12日、島津氏の「軍配」川田義朗から、「明日から悪日が続くので、出陣は控えるべき」という見解が進言されました。川田の見解は、敵に奪われた花之山に「改軍」つまり転進するのがよいというものです。この進言は鹿児島の島津義久にも伝わり、義久は「改軍之法」など聞いたことがないとしつつも、なんとしても「川田軍神之御祈念」に従うことが肝要という意向を示しました。いかに「軍配者」が戦国大名から尊重されていたかを示すエピソードといえるでしょう。
 川田義朗の進言は、花之山失陥後、同城の方面で屈強な敵60余人を討ち取ったという背景があったことも手伝って、時宜に叶ったものと捉えられたようです。天道が「改軍」をなさるべきといわれているからには、それに従うほかない、というのが島津義久の上意でした。

 それで翌日、花之島の向かって転進…とはなりませんでした。なぜかというと翌13日、諸勢の若衆が命令も待たずに勝手に堅志田へ攻めかかってしまったためです。驚いた上井覚兼は、若衆を押しとどめようとしたのですが、失敗。それで覚兼がよくよく考えてみたところ、最近戦で手柄をたてておらず、この機会を逃してよいものかと逡巡し始めたというのです。そこへ事態を把握した新納忠元がやってきて、ともかく堅志田を攻めてしまおうという話になり、そのまま同城を攻略してしまいました。つまり堅志田攻略は、「軍配」の意見を無視した若衆の暴走が、勝敗を決してしまったわけです。

 とまあ、身も蓋もないエピソードというか、戦争の現実を教えてくれる話なのですが、手柄を立てたい一心の若衆にとっては、「軍配」の意見などどうでも良かったわけです。それが結果的に、堅志田攻略を成功に導いてしまいました。結果的に「悪日だ」という「軍配」は大外れだったわけですが…。

 なぜこの話を持ち出したかというと、実は『大日本古記録 上井覚兼日記』(1957年)の索引では、川田義朗に「義久軍師」という注記がつけられているのです。索引がどの版でつけられたか(つまり初版からあったかどうか)は手元の本ではわからないのですが、かなり早い段階で、「軍配者」=「軍師」という認識が成立していた事になります。これは個人的には、予想よりも早い認識の成立でした。

 考えてみれば、司馬遼太郎が短編「軍師二人」(これは真田幸村と後藤又兵衛が主人公)を発表したのは1963年、同短編を表題にした短編集を刊行したのが1985年です。吉川英治の『三国志』刊行はもっと早く、1939年ですから、三国志が江戸時代よりもさらに幅広く大衆の人気を得ていく過程で、「軍師」概念が日本人に受容され、普通名詞化していったということができるでしょうか。『歴史読本』では江戸時代における軍師概念の受容について書きましたが、近現代における軍師概念の受容と、「なぜかくも『軍師』は日本人を魅了したのか」というのも、興味深い命題です。いつかきちんと調べてみたいと思っています。ちょっと難しい宿題ではありますが。
(2013-04-08)
○『北関東の戦国時代』受贈
 柴裕之・戸谷穂高両氏より、江田郁夫・簗瀬大輔編『北関東の戦国時代』(高志書院)を受贈しました。この場を借りて、厚く御礼申し上げます。

 本書は、2011年8月から2012年3月にかけて、茨城県立歴史館・栃木県立博物館・群馬県立歴史博物館が連携で行った「北関東3館連続シンポジウム・北関東の戦国時代」の成果論集です。

1 北関東の首都機能
十五世紀後半の関東山田邦明
享徳の乱期の五十子陣について森田真一
戦国期東国の首都性について―古河公方成立とその歴史的前提から―内山俊身
2 戦国大名の登場
十六世紀前半の北関東の戦乱と佐竹氏佐々木倫朗
戦国大名那須氏の成立江田郁夫
戦国期渡良瀬川の洪水と水運―両毛国境河川地域における「川の領主」の登場―簗瀬大輔
3 戦国の終焉
「惣無事」と豊臣秀吉の宇都宮仕置―関東における戦国の終焉―市村高男
古文書で見る常陸小河合戦荒川善夫
織田権力と北関東地域―神流川合戦の政治的背景と展開―柴裕之
沼尻合戦―戦国末期における北関東の政治秩序―戸谷穂高

 第一部が群馬県立歴史博物館、第二部が茨城県立歴史館、第三部が栃木県立博物館でのシンポジウムが元ですね。一部、諸事情で収録できなかった発表成果があるとのことで、残念ですが、まあ仕方のないところです。
 北関東の研究は、正直中部・南関東の研究に比して遅れ気味という問題点がありました。本書を起点に、研究がさらに進展することを強く望みます。

(2013-04-02)
○人物叢書『織田信長』雑感
 多少今更感があるのですが、池上裕子『人物叢書 織田信長』(吉川弘文館)につきまして。昨年末の発売後、数日であっというまに重版が決定し、現在は三刷だそうです。いやはや、ものすごい売れ行きですね。

 私個人も、この売れ行きは当然だと思っています。ひとつは信長という人物が非常に人気がある、という当然の事実もあるのですが、それだけではありません。今まで、織田信長に関して、人に勧められる本がなかった、というのが私の正直な感想なのです。

 この背景には、どうも信長研究というのは、信長を相対化してみる視点に欠けているのではないか――、と私個人が感じてしまっているということがあります。何でもかんでも話を信長個人の資質に還元してしまい、戦国時代という社会の中で織田政権をどう位置づけるか、という視点が弱い、そう感じていたのです。批判を承知で本音を述べてしまいますと、英雄史観の呪縛から抜け出せていないのではないか?とすら思っていました。

 個人的な話で恐縮なのですが、ある研究者と話した時に、「信長と戦国大名を一緒に評価できるわけはない。なぜならば信長は京都を掌握した中央政権だからだ。段階が違うに決まっている」という趣旨のことをいわれたことを思い出します。「違うに決まっている」…果たして、簡単にそう言い切れるものなのでしょうか。戦国大名と比較した上で、中央政権でなければなしえないことは何かを峻別し、その上で、「違う」と評価する、これが正しい手続きであるはずです。ですが、どうも信長がからむとそのように話が運ばない。そして私自身が織田研究にも手を伸ばすようになると、しばしばこの壁に突き当たるようになってきたのです。

 ですから、人から聞かれても、あまり積極的に信長関係の本を薦める気が起こらなかったのです。もちろん私個人として、これならば、という本が無いわけではなかったのですが、多少難しい本(つまり専門の学生向け)だったりして、万人に勧める、というわけにはいきませんでした。

 そうしたなかで、本書は初学者にもわかりやすく、かつ若手――これはありがたいことに私の知見も含むのですが――も含めた最新の知見も織り交ぜたものに仕上がっており、今後の研究の土台、となる本だと思ったわけです。
 本書については、色々と意見もあるかとは思いますが、後北条の研究者である池上さんが、後北条研究で培った土台に、織豊期の研究をさらに重ねた結果の成果を出されたものと理解しています。その意味で、池上さんの研究成果に強い敬意を払います。もちろん、私自身も、一読して疑問に感じる部分がないわけではありません(当たり前ですが、すべての主張に納得できる本などそうそう存在はしません)。ですが、それは今後われわれ若手研究者が解決していくべき問題だと思っています。ようやく、織田研究は、共通の議論を行う土台を得ることが出来た――そう判断しています。

 そのうえで、本書を読まれる方にポイントを指摘しておきたいと思います。というのも、本書の大部分は政治史の話になっていますので、そこで飽きてしまう方もおられるかと思うからです。具体的には、第二章(特に四節)と、第七章・第八章が該当します。ここが最新の研究成果を特に反映し、かつ戦国大名との比較という視点を持った章ですので、ここから読まれることをお薦めします。

 なお、池上さんからいただいたお手紙によりますと、三刷にあたって修正を加えた箇所があるとのことです。せっかくですので、以下に一覧化しておきたいと思います。

77頁11行目
 信長が義景宛に提出した霊社起請文写を
→信長が義景に出したはずの起請文は知られていなかった。それにあたるとする霊社起請文写を
77頁12行目の下の方
 義昭の仲裁で定まった五
→義昭の仲裁で定まったとする五
77頁15〜16行目
 【全文削除】
→がみえ、興味深い。この史料は後世の編纂物に入っていたもので、日付がないなど究明が待たれる点がある。
143頁 図の下のキャプション
安土城縄張り図(小島道裕『信長とは何か』講談社より)
→安土城中心部の図(『滋賀県中世城郭分布調査4』滋賀県教育委員会、1986年/小島道裕『信長とは何か』講談社より)
193頁6行目
 蒲生秀郷
→蒲生氏郷
237頁7行目
 奥裏に
→奥に
242頁8行目
 奥裏の上部
→奥上部
265頁後ろから2行目下の方
 重用した顔ぶれをみると
→重用した顔ぶれには
265頁最後の行〜266頁1行目にかけて
 この両国出身者を譜代家臣と規定してよいだろう。
→この両国出身者を仮に譜代家臣と呼んで、その他と比較してみよう。
266頁1行目
 一門の子供や弟を用いた伊勢・尾張・
→一門の子や弟を用いた伊勢と尾張・
276頁1〜2行目
 信長のお気に入りの側室だった光秀の妹が天正九年八月に亡くなり信長との強いパイプを失ったこと(勝俣鎮夫「織田信長とその妻妾」)
→天正九年八月に光秀をひどく落胆させた「妹ノ御ツマキ死に了んぬ」という不幸があり、信長とのパイプ役を失ったこと(『多聞院日記』、勝俣鎮夫「織田信長とその妻妾」)
(2013-03-31)
○『武田氏研究』47号刊行
 『武田氏研究』47号が刊行されました。

一五五〇年代の東美濃・奥三河情勢―武田氏・今川氏・織田氏・斎藤氏の関係を中心として―小川 雄
戦国期西上野地域領主の史的考察―南牧衆中の市川氏について―恩田 登
〔史料紹介〕高野山成慶院『甲斐国供養帳』(六)―『甲州月牌記 五』(その2)―丸島 和洋

 今回の注目は何といっても小川君の論考です。武田・今川・織田・斎藤の政治動向の通説を見事に塗り替える内容となっています。

 丸島はいつもの高野山の史料紹介の続き。今回紹介している冊子は、全容公開まであと2回はかかると思います。ちょっとなかなか完結の目途がたちません。

 もうしばらくかかるかと思いますが、岩田書院さんの取り扱いで、ジュンク堂などの大型書店で販売されます。毎度ながら、よろしく御願いいたします。
(2013-03-30)
○甲府の散策
 久しぶりに甲府を散策してきました。ちょっと気になったのが、数年前に整備された「武田二十四将屋敷配置図」です。甲府駅北口と、武田神社前に看板が立てられています。下にあげたのは、「古府之図」。大正7年成立の『甲府略志』挿入図版をもとに、武田二十四将の屋敷配置を示しています。同じ看板には、「現代の図」もあり、これと見比べるとどこに誰の屋敷があったか、一目で分かります。

 古府の図

 武田神社は、そもそも躑躅ヶ崎館跡ですので、ここを起点に散策すれば、重臣の屋敷がどのような場所にあったか、探せるという寸法です。まあ、観光としては興味深いアイデアでしょうか。

 小山田信茂屋敷跡
 小山田信茂屋敷跡。武田神社の西北に所在。現在は駐在所になってます。北に進めば武田信廉屋敷跡、西に進めば土屋昌続屋敷跡があります。

 穴山信君屋敷跡
 穴山信君屋敷跡。こちらは武田神社の目の前なのですぐ見つかります。ちなみに武田神社からまっすぐ南に進めば、馬場信春屋敷跡があります。

 このように、屋敷跡には立て看板が置かれています。ただ、それぞれの屋敷跡はそれなりに広いので、看板がどこに建てられているかはばらばら。看板の位置によっては、思ったより辿り着くのに時間がかかります。

 武田神社外観
 武田神社を外から撮影。この角度から撮影すると、ああ、躑躅ヶ崎館跡なんだな、というのが実感できますね。

 ひととおり歩きまわった調査も一段落しました。当面は、家に籠もって原稿執筆作業に勤しむことになりそうです。
(2013-03-28)
○『戦国史』受贈
 秋山正典氏より青木裕美・秋山正典・飯盛康広・久保田順一・清水豊・須藤聡・細谷昌弘・森田真一・簗瀬大輔『戦国史―上州の150年戦争―』 (上毛新聞社) をご恵贈いただきました。これまたご紹介が非常に遅くなってしまったことをお詫びします。


 関東の戦国史を、従来の北関東・南関東という視点ではなく、利根川を境に東関東(安房・上総・下総・常陸・下野・東上野)と西関東(伊豆・相模・武蔵・西上野)に二分し、150年におよぶ戦国期政治史に分析を加えた一書です。東関東は鎌倉以来の有力豪族層が割拠する地域で、「関東の王」として鎌倉公方足利氏を奉戴し、西関東は関東管領上杉氏とその一族の守護管国で、京都の室町幕府と結びついた――そんな前史からスタートします。

 この新しい視点から上野、ひいては関東の戦国史を捉え直すという作業を、一般向けの分かりやすい筆致で描いています。価格もリーズナブルですので、幅広い読者にお勧めできる一書だと思います。本のタイトルもかなり意欲的です。何しろ副題までみないと、何の本だか分からないという…。

 出版元が地方出版ですので、大型書店か、ネット通販でないと入手が難しいのが唯一の難点でしょうか。もっとも、ネット通販が使えれば、大した問題にはならない昨今ではあります。ただ手にとって中身を確認するのが難しいというのは、ちょっと痛いところですね。というわけで、埋もれてしまってはもったいない著書ですので、細目次を紹介します。

<総説>上州戦国時代への誘い
はじめに/一 古河公方と関東管領の対立―戦国前期の上州―/二 地域権力と家中の登場―戦国中期の上州―/三 三国戦争から統一戦争へ―戦国後期の上州―/おわりに

第一部 戦国上州人の自立と従属
 第一章 戦国上州人、「都鄙」を惑わす
1都鄙の対立・交流と「東・西関東」/2享徳の乱の諸合戦/3長尾忠景と長尾景春―家宰職をめぐった二人―/4関東は再び戦乱へ―長享の乱―/5永正の乱と上野国/6『松陰私語』―関東戦国史幕開けの根本史料―/【古文書ミニ講座1】書状の見方1―右筆― 上杉顕定書状

 第二章 戦国上州人、「家」を興す
7両岩松氏の抗争と横瀬氏の実力/8見えてきた館林城主赤石の姿/9桐生佐野氏―桐生を拠点とした佐野一族―/10「境目の領主」赤堀氏/11箕輪長野氏の飛躍/12小幡氏の戦国時代/13吾妻地域の滋野一族/14白井長尾氏の盛衰/15曇英がみた上州の武将/【古文書ミニ講座2】書状の見方2―料紙― 上杉顕定書状

 第三章 戦国上州人、「境目」を生き抜く
16憲政没落―上野戦国の開始―/17景虎越山―敵・味方に分かれる上州の衆―/18西上州を荒らし回る武田軍団/19北条高広と内藤昌秀―箕輪城と厩橋城―/20越相同盟―上野国衆はどう関わったか―/21長篠合戦と西上州武士団/22御館の乱と上野国/【古文書ミニ講座3】起請文―誓約のかたち― 小幡信実起請文

 第四章 戦国上州人、「国」を夢見る
23神流川合戦―国境河川地域の戦争と平和―/24渡良瀬川兄弟領国の夢/25沼尻合戦と黒川谷の戦国/26後北条領国の検地/27後北条領国の軍役/28「公儀」による領国経営/29真田昌幸の生命線となった沼田支配/30豊臣秀吉の天下統一と西上州/【古文書ミニ講座4】掟書―戦国大名の権威と権力― 北条家掟書

第二部 戦国上州人の創造と交流
 第一章 戦国上州人、大地を拓き地域を創る
1城と土木技術から探る上州の戦国社会/コラム1 戦国時代の武器と武具/戦国探訪1 金山城へいざ出陣/2戦国上州の道と町場/コラム2 平塚の渡と古戸の渡/戦国探訪2 上泉信綱の墓/3戦国上州の村と百姓/コラム3 百姓の名前/戦国探訪3 平塚赤城神社のお川入れ

 第二章 戦国上州人、命をつなぎ未来を築く
4出土品から探る上州の戦国社会/コラム4 「粉食王国群馬」のルーツを探る/戦国探訪4 安中市でみつかった焼物生産工房/5戦国上州の山の民・川の民/コラム5 戦国上州ブランドの逸品/戦国探訪5 大谷休泊の墓

 第三章 戦国上州人、文化を求め平和を夢見る
6儀礼と格式から探る上州の戦国武将/コラム6 鶴岡八幡宮再建と上野国/戦国探訪6 群馬県立文書館/7戦国を生きた上州の宗教勢力/コラム7 戦国期の修験道/戦国探訪7 戦国期の白岩観音/8文芸から探る戦国の上州人/コラム8 連歌会が行われた場の考古学/戦国探訪8 長野氏ゆかりの砦―北新波砦跡―
(2013-03-25)
○受贈図書への御礼
 黒田基樹氏より『戦国期山内上杉氏の研究』(岩田書院)を、村石正行氏より『中世の契約社会と文書』(思文閣出版)を受贈しました。ご紹介が遅くなることをお詫びするとともに、この場を借りて厚く御礼申し上げます。

 視点はまったく異なる両書ですが、武田氏に関わる論文も収録されています。ぜひ御手にとって御覧いただければと思います。

(2013-03-24)
○『歴史読本』5月号(黒田官兵衛特集)への執筆
 今月23日(土)発売の、『歴史読本』5月号(新人物往来社)に原稿を書かせて頂きました。5月号は、来年の大河ドラマにあわせて、黒田官兵衛の特集号となっています。私の執筆担当は、簡単に言うと「戦国時代における軍師」の概説です。

 ここで内幕を少しだけ打ち明けてしまいますと、「戦国時代の「軍師」(仮)」というタイトルで、「軍師の分類(そもそも軍師とは? 軍師はいたのか?)」「実際の目的にわかれた、陰陽道的、参謀的、さまざまな役割と分類」を書いて欲しいというのが依頼内容でした。
 ただ、私は「戦国時代に軍師はいない」という立場をとっています。ですので、「軍師なんていなかったと書くけれど、それでもいいならお引き受けします」と回答しました。まあ、正直な所、断って人選をやり直すだろうと踏んだのです。すると、「その内容で構わない」という予想外の御返事を頂戴したので、喜んでお引き受けさせて頂いた次第です。

 4月号掲載の次号案内では、「軍師の分類」というようなタイトルとなっていましたが、実際は「戦国時代に軍師はいたか? 官兵衛らが称された「軍師」の正体」というタイトルに落ち着きました。内容が正反対になっていますが、私と編集部の間では、当初からの打ち合わせどおりです。このタイトルも、私の方で「戦国時代に軍師はいたか」というあっさりしたものを提出したところ、原文を書き替えることなく味付けして貰ったもので、なかなか気に入っています。

 それで執筆に取りかかったところ、書きたい内容が次々と湧いてきまして、実は特別に御願いして少しだけ頁を増やしてもらいました(これは正直言うと反則ワザです)。内容を書くわけにはいきませんが、そろそろ発売間近ですので、小見出しだけ掲げると以下のようになります。

 戦国大名と軍師/軍学者たちの時代/『三国志演義』と軍師理解の広がり/三国時代の軍師

 ようするに、ちょっと私の専門をはみ出しまして(これは私には珍しいことです)、江戸時代と中国の三国時代にまで踏み込んだ話を書いています。とはいえ、専門外の分野をすらすら書けるわけはありません。後の2項目は、専門の研究者が書かれた論文を踏まえた内容です。ですから、オリジナリティーがあるのは、最初の2項目が中心になります。もちろん、文責がすべて私に帰するのは当然ですし、後の2項目についても少し味付けは加えていますが。

 そういうことですので、今回は参考文献を大量に載せさせていただきました。より深く勉強なさりたい方は、これらの文献にあたってみてください。中には、私が執筆している本で、まだ未発売(今年5月刊行予定)のものも混ぜてあります。実は出版社のほうでもまだ宣伝を始めていない本で、『歴史読本』の拙稿が初宣伝となります(当たり前ですが、出版社の許可はとってあります)。もし興味を持たれたら、『歴史読本』とあわせて、発売後に御手にとっていただければ幸いです。
(2013-03-20)
○高野山調査2013・春の陣
 恒例の高野山調査です。今回の調査先は金剛三昧院。ただ個人的に時間に余裕があったので、九度山の真田庵と蓮華定院にもうかがいました。

 真田庵では、真田昌幸の墓の撮影。これは以前済ませたはずだったのですが、写真を紛失してしまったために、撮り直しです。なお、真田庵に行かれる際は、案内板を無視することをお勧めします。案内板では、駅を出た後、右折するようにという指示がでていますが、この道はものすごい遠回り。直進していけば、すぐにつきます。

 真田昌幸墓

 お目当ての、真田昌幸の墓です。形式は、宝篋印塔ですね。

 蓮華定院では、真田昌幸の逆修(生前供養)位牌を拝見。ただ、これは一般には非公開です(なので、ここには写真を出しません…そのうち許可を取って、本の挿絵にでも使おうかな、と思っています)。お寺には、真田家歴代の位牌が納められているそうで、信之の位牌も拝見したかったのですが、すぐには見つからず、断念しました。もう一度うかがいたいものです。

 話は変わりますが、『戦国史研究』65号が刊行されました。羅針盤(研究余滴)として、海老沼真治「御館の乱に関わる新出の武田勝頼書状」が掲載されています。武田の新出史料は、本当によく見つかります。今後のさらなる発見に期待したいところです。
(2013-03-18)
○松代小山田家文書の調査
 このところ慌ただしく、更新頻度が落ちてしまっています。そろそろ回復したいところなのですが…。

 先日、松代に調査に行ってきました。目的は松代藩家老「小山田家文書」の調査です。真田宝物館を通して依頼したところ、快く文書を見せてくださいました。小山田家御当主と、真田宝物館の皆様に心から御礼申し上げます。

 「小山田家文書」の調査は、驚きの連続でした。調査の主目的は、小山田信茂発給と思われる一字書出にあったのですが、法量が34.6×50.8と非常に大きい!その上、紙質が斐紙(雁皮)です。鳥の子といっても良さそうな、上質な紙でした。一字書出に斐紙を使う事例ってあるんでしょうか?
 そのうえ、真田昌幸からの最初の宛行状はさらに大きい。ちょっとこれには驚かされた次第です。

 次に、真田信之発給文書を中心に、礼紙のついたの折紙が非常に多かったこと。つまり白紙の折紙が下に重ねられている状態です。これもなかなか目にする機会がないと思います。普通、礼紙というのは残りづらいからです。折紙にも、礼紙をつけるものだということがよく分かりました。

 文書調査後、松代を散策。長国寺では、小山田家の墓所に参拝してきました。長国寺の墓所には、かなり形式の古い墓石が数多く残されています。小山田家の墓所も同様で、初代茂誠と茂誠の正室・村松殿(真田昌幸長女)、そして茂誠の嫡男之知の墓を確認してきました。

 小山田茂誠・村松殿墓
 右が小山田茂誠、左が村松殿の墓です。
 小山田之知墓
 こちらは小山田之知の墓。

 今年も、調査が多そうな一年になりそうです。早め早めに、成果を出していければよいのですが。サイトのほうも、もう少し更新ペースを早めたいな、とは思っています。なかなか難しいのですが。
(2013-03-11)
○2012年を振り返って
 新年最初の更新が、随分遅くなってしまいました。

 昨年も、武田氏研究は盛況な年であったと思います。特に、あいつぐ新出史料・関連史料の発見と紹介には目を見張るものがありました。私も、「『戦国遺文武田氏編』補遺」をまとめさせていただきましたが、その後の発見を含めると100点近い新出があったことになるかと思います。

 既に、私の手許にも、まだ未公表の新出史料の情報が寄せられています。今年も、史料紹介と、それに基づく研究の進展が期待できる一年になると期待しています。また一年間、よろしくお願いいたします。
(2013-02-03)