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雑記

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○『真田氏給人知行地検地帳』調査と蓮華定院過去帳の史料紹介
 連続更新で失礼します。
 先日、真田町を訪問しまして、『真田氏給人知行地検地帳』(個人蔵)を拝見・調査させていただく機会を得ました。

 この史料、天正8年2月に死去した真田信綱夫人(御北様)の知行地の記載があることから、それ以前、天正6〜7年の記載内容を持つものと考えられています。真田昌幸夫人(山之手殿)を「京之御前様」と表記するなど、議論の分かれる昌幸夫人の出自についても情報を提供してくれる、貴重な史料です。『真田町誌調査報告書第2集』として刊行されたのですが、既に絶版となっています。私は、ぎりぎり入手できましたが…。

 ただこの検地帳、一風変わっています。それは何かというと、紙綴じ目印の捺され方です。この検地帳には、綴じ目印として「頼綱」黒印が捺されています。これは真田昌幸の叔父・矢沢頼綱(綱頼)の実名印と考えられています。
 問題は、「頼綱」黒印の捺されている位置です。こういう冊子の場合、紙の綴じ目、つまり冊子を開いて真ん中に捺す(冊子の「のど」の位置に捺す)というのが普通で、たしかにそういう箇所もあります。
 ところがこの検地帳の場合、それ以上に多いのが、右側の丁に印の右半分が、左側の丁に印の左半分が捺されている、というもの。片方の丁を斜めに折って、反対側に合わせてみるとぴたりと符合する、という形になっているのです。どうしてこのような印の捺し方をしたのか…。不思議でなりません。どなたか、他例を御存知の方がおられましたら、ご一報ください。

 また、真田氏に関連したものとして、『信濃』64巻10号・12号に、史料紹介として「高野山蓮華定院『真田御一家過去帳』(上)(下)」を発表させていただきました。蓮華定院の調査も随分前から行っているのですが、初めてその調査成果を送り出すことができました。真田家に関する過去帳3冊を翻刻しています。真田家の初代・幸綱(いわゆる幸隆)の実名問題についても検討を加えています。ご一読いただければ幸いです。
(2012-12-31)
○『馬の博物館研究紀要』18号の刊行
 ちょっとばたばたしておりまして、だいぶ前にいただいた雑誌の紹介が遅れました。各方面にお詫び申し上げます。
 『馬の博物館研究紀要』18号が刊行されました。

〔小特集〕戦国時代の交通を考える
今川領国の宿と流通―宿と流通を語る「上」と「下」―大石泰史
北条氏の陸上交通政策黒田基樹
武田氏の流通統制について平山優
―――――――――――――――――――
戦国期常陸の馬産長塚孝

 小特集は、2011年10月29日に行われたシンポジウムを論文化したものとのこと。それに長塚さんの御論文を含め、全四本からなる戦国期特集号となっています。非常に興味深い論考が揃っていますので、是非ご一読をお薦めします。

(2012-12-30)
○小山田氏歴代をめぐるあれこれ
 以前、『甲斐小山田氏』の総論を書いた時に、仮説を提示したのですが、長生寺で「小山田信有像」を拝見して、改めて小山田氏歴代について思いをはせているところです。

 小山田氏歴代で、最初に没年がわかるのは永正5年(1508)に戦死した弥太郎です。享年はわかりません。しかし弥太郎、とまだ仮名を用いていることからみて、そんなに年齢はいっていなかったと思います。ここでは仮に、30歳で没したとしてみましょうか。行論の都合上、少し高めに年齢を見積もっています。実際は20代であったと考えるのが自然でしょうか。

 越中守信有は弥太郎の子と考えられます。永正5年の父・弥太郎戦死時、仮に15歳であったとしましょう。実際は、もう少し幼かったと思いますが、あくまで仮の年齢です。『勝山記』に受領名「越中守」で初めて記載されるのは享禄3年(1530)。家督相続の22年後ですから、家督継承時15歳であったとすれば、37歳の時となります。受領名を用いても、そんなに不思議な年齢ではありません。死去したのは、天文10年(1541)ですから、この仮定でいくと48歳没、ということになります。

 次代の出羽守信有の初見は天文11年です。この時は、まだ弥三郎を名乗っています。まだ若年であったと考えてよいでしょう。先代と同じ実名を用いていることから考えれば、越中守信有死去後の元服と捉えるのが妥当です。ですので、仮に天文10年段階で15歳であったとしてみましょう。この年齢なら、弥三郎という仮名を用いていても不自然ではありません。
 ところが、天文14年には受領名出羽守を称しています。天文10年15歳という仮説からすると、19歳で受領名を称したことになります。これはちょっと早い感じがします。どうも違和感が大きい。
 さらに問題になるのが、享年です。出羽守信有は、天文21年に死去しています。家督相続時15歳という仮定からすると、享年は26ということになります。ところが、長生寺に伝わる「小山田出羽守信有像」は、髪・口ひげ・あごひげ、いずれも白髪混じりです(先日の調査で実見しました)。どうみても初老、ということになります。実際、山梨県指定文化財となった時の解説看板にも、「初老の武人」と記されています。これはどうしたことでしょう?。

 初老というからには、少なくとも40代くらいを想定しなければなりません。仮に天文21年45歳没としてみましょうか。すると、家督相続時の年齢は34歳となります。とすると、越中守信有14歳の時の子、ということになります。不可能ではありませんが、この越中守信有の年齢は、高めに見積もったものです。実際は、もう少し若かったと考えられます。そうなると、とたんに親子の年齢差が苦しくなってくるのです。
 ではもう少し出羽守信有を若返らせて、40歳没ならどうでしょう?家督相続時の年齢は29歳。越中守信有19歳の時の子となります。う〜ん、これなら越中守信有がもう少し若くても親子と見て不自然ではありません。しかしそれですと、出羽守信有像は30代後半の絵となってしまいます。30代とみるには、少し像主が老けすぎてはいないでしょうか?やはり40代半ばに没したとみたほうが自然でしょう。
 いずれにせよ、家督相続時に元服した、という想定は見直さなければなりません。出羽守信有は、少なくとも家督相続時には元服済みの青年の部将で、家督相続に際して実名を先代と同じ「信有」に改めた、ということになります。少なくとも、この点は動かしようがありません。また、家督相続時に既に青年に達していたからこそ、そのわずか4年後に、出羽守という受領名を称することができたのです。またこの年齢想定でいけば、出羽守信有の嫡子弥三郎信有が天文9年生まれであることも、素直に理解できます。45歳没で考えれば33歳、40歳没で考えれば28歳の時の子供、というわけです。嫡男の出生年齢を考えると、後者のほうが自然ですが、やはり肖像画の容貌との差が立ちはだかります。私としては、40代で没したとみたほうが自然に思えるのです。

 このように考えて、『甲斐小山田氏』の総論では、越中守信有と出羽守信有を親子関係で捉えることに疑問を呈したのです。いま、小山田氏については再度考え直す機会をいただいています。どう考えるのが一番しっくりくるでしょうか。頭を悩ませているところです。
(2012-10-20)
○都留市内の調査
 10月7日(日)に、都留市域の調査をしてきました。

 回ったのは、長生寺・桂林寺・用津院(ゆうしんいん)。特に長生寺では、古文書や御位牌、それに著名な小山田(出羽守)信有像を拝見させていただきました。御住職のご厚意に、深謝申し上げます。

 下の写真は、桂林寺の麓から南側を撮った風景。このあたりに、小山田氏の最初の本拠地中津森館があったと考えられています(『都留市史通史編』)。奥に映っている山が用津院にあたります。ようするに、用津院の北、桂林寺の南に位置したと考えられているわけです。
 中津森館跡

 ただし『甲斐国志』には、「用津禅院ノ東ニ在り」と記載。あれ、位置が異なります。このあたり、どうなんでしょうか。小字との照合を行えればと考えていますが…、難しいかな?
(2012-10-15)
○『年報三田中世史研究』19号の刊行
 慶應中世史の院生同人誌、『年報三田中世史研究』19号が刊行されました。

朝鮮に漂流・漂着した倭人関周一
中近世移行期貴族層における寺院・墓地・檀家の関係について的場匠平
【研究ノート】南部九州と対外交渉臼井和樹
【史料紹介】高野山金剛三昧院所蔵中性院『奥平家過去帳』丸島和洋

 拙稿は、毎年行っている高野山の調査成果報告です。金剛三昧院に伝わっている中性院(現在は同院の塔頭化)の『奥平家過去帳』(『現在過去名帳』『現在過去名簿』の2冊)を翻刻したものとなります。2冊分ありますので、ちょっと分厚い…。内容的には、奥平家の初代に始まり、天保期くらいまでの記載が主となっています(解題参照)。ですので、戦国期の記載も少しはあります。奥平家と、分家の奥平松平家の供養が書き込まれています。
 解題でも少し触れましたが、実は奥平家の過去帳は家臣団の分もありまして…。めずらしく予告になりますが、これは来年翻刻紹介をする心づもりでいます。ただ、家臣の史料不足で、実名の確定なんかはできそうもないんですよね。今後の課題となると思います。
(2012-09-27)
○コラムの執筆とツイッター
 洋泉社から出版されているムック『歴史REAL vol.8 戦国武将入門』に、コラム「間違いだらけの戦国武将の「名前」」を書かせていただきました。内容はさほど目新しいものではなく、近年明らかになった武田家臣の正しい実名一覧と、誤りが生じた背景を、真田家と三枝家を素材に述べたものです。後者は、著書で書いた内容を一般向けに書き直したもの。

 これでちょっと驚いたのは、依頼そのものでした。というのも、名指しで表題のような内容で書いて欲しいと依頼が来たからです。これは、僕の専門を知っているだけでは来るはずのない依頼。前に歴史読本から依頼の来た、「武田四天王」とかなら分かるんですが。
 実はツイッターのほうで、真田幸綱(いわゆる幸隆)の実名にはじまって、戦国武将の実名や通称に関するツイートをしたことがあるのです。それを他の方がtogetterでまとめてくださったのですが、そのまとめの名前が「再発見される戦国武将の諱について」。まんまそのままですね。どうも編集担当の方が、これをてがかりに依頼を出してくださったようなのです。

 なんというか、世の中不思議な縁もあるものです。こういう御縁も、大事にしていきたいと思います。ともあれ店頭で見かけたら、手にとって御覧いただければ幸いです。
(2012-09-17)
○高野山調査報告2012その3
 四国で行われた戦国史研究会・四国中世史研究会合同例会で報告した疲れがどうも抜け切りません。どうも体力不足でいけませんね。そんななか、今年3度目の高野山調査に行ってきました。今年の夏は暑く、山上でも日差しはなかなか厳しいものがありました。

 今回の訪問先は、櫻池院(成慶院)と金剛三昧院です。
 櫻池院では、成慶院所蔵の古い位牌を調査してきました。今までは武田信玄の位牌(本堂で普段から公開、『武田氏年表』に写真掲載)だけしか拝見したことがなかったのですが、御願いして特別に見せていただきました。保科正直・正光父子や柳沢吉保など、なかなか興味深い位牌が並んでいました。一見した感触では、当時のものとみてよさそうです。ただ位牌の調査成果というのは、活字化が難しいですね。方法を考えないといけません。

 金剛三昧院では近世文書の調査を行いました。近世文書ということで、正直あまり期待していなかったのですが…。やはりなかには古い記載をもつものも混ざっており、急にテンションがあがります。この成果は、来年にかけて公刊していこうと思っています。

 現在、『年報三田中世史研究』19号(10月奥付)に掲載予定の史料紹介原稿の執筆中です。ここ数年継続して行っている、金剛三昧院の調査成果を一部活字化します。ご期待ください。
(2012-08-31)
○高野山調査報告2012その2
 今年2度目の、高野山調査に行ってきました。

 今回の訪問先は、蓮華定院。佐久郡の供養帳下書きと、真田家の松代移封後の更級・埴科・水内・高井各郡の供養帳の調査が目的です。蓮華定院を訪ねたのも、もう4回目になるでしょうか。調査をご快諾くださった御住職様には、心から御礼申し上げます。

 今回は、お寺の裏山にある真田信之・信政および信之に殉死した鈴木右近忠重の墓所も拝観させていただきました。お寺の中を通らないと行けないため、お寺の方に御願いをする必要がありますが、快く案内してくれるようです。

 真田信之供養塔
 真田信之供養塔

(2012-07-30)
○武田信清判物の発見
 田中加恵氏より、真田宝物館の紀要『松代』25号をご恵贈いただきました。

 田中氏が執筆されたのは、「史料紹介 川合(羽田)家史料―北条家印判状他について―」。新たに寄贈された文書群のうち、中世文書の紹介です。
 副題にあがっている北条家朱印状は、天正10年6月22日に、上野大戸に出された禁制。同日付のものが数点知られていますが、これ自体は新出のものです。写としても知られていませんでした。
 問題は副題の「他」のほう。天正11年12月14日付の武田信清判物(知行宛行約諾)です。武田信清は信玄の七男で、安田家の名跡を継いだとされる人物。武田氏滅亡後は、姉の菊姫の縁を頼って、上杉景勝のもとに亡命し、そのまま上杉家に仕えました。ただその事蹟ははっきりせず、発給文書も一点も知られていませんでした。それが今回出てきたわけです。花押型も、きちんと武田様になっています。
 この2点の文書は、事前に拝見させていただく機会を得ました。紙質・墨色とも正文と判定して差し支えのないものです。非常に貴重な新発見でした。

 貴重な研究成果をご恵贈いただいた田中氏には、この場を借りて御礼申し上げます。
(2012-07-23)
○『武田氏研究』46号の刊行
 『武田氏研究』46号が刊行されました。

〔記念講演〕今川領国から武田領国へ久保田 昌希
武田信玄の東美濃進攻と快川国師柴辻 俊六
穴山信君と畿内諸勢力―武田外交の一断面・史料紹介を兼ねて―須藤 茂樹

 年2回刊行でありながら、2ヶ月連続刊行という異例の事態になってしまいました。
 今号は、講演1本、論文2本という構成になっています。もっとも須藤氏の論文は、史料紹介を兼ねたものとなっており、「釧路・於曾家文書」7点を写真付で紹介しています。ただし7点すべてが穴山信君宛てのもので、「穴山家文書」とでも称すべき一群です。非常に興味深い内容ですので、ぜひご一読ください。
(2012-06-19)
○『武田氏研究』45号の刊行
 『武田氏研究』45号が刊行されました。

戦国大名武田氏の普請役鈴木 将典
戦国前期上野沼田氏の動向黒田 基樹
「駿河富士大宮浅間神社神馬奉納記」考平山 優
『戦国遺文武田氏編』補遺丸島 和洋

 奥付は3月31日となっていますが、実際の刊行は5月下旬にずれこみました。遅くなりまして、本当に申し訳ありません。
 今号は、論文2本、史料紹介2本という構成になっています。私の「『戦国遺文武田氏編』補遺」は、タイトル通り、『戦国遺文武田氏編』(東京堂出版)刊行後に発見された新出文書、及び採録漏れとなっていた文書80点に、関係文書2点を集成したものです。遺文の完結が2006年5月ですから、わずか6年で80点もの補遺が集まったことになります。このスピードには、関係者一同ただただ驚くばかりです。写真も、小さなものですが、2点を掲載しました。関係各位には感謝申し上げます。
 なお、編集後記では、遺文段階では「写本から翻刻掲載されていた文書のうち、原文書が確認されたもの」も含むと書かれていますが、これは採録していません。初校の段階で、統一性を考えて本文から削ったのですが、初校を見て編集後記を執筆した編集担当者との間で、連絡ミスがあった結果です。誤解を招いた段、お詫びして訂正いたします。

 実をいいますと、『武田氏研究』は次号にも新出史料紹介が掲載される予定です。いずれそれらを一括して、刊本の形で補遺編を東京堂出版から刊行したいと考えています。いましばらく、お待ちいただければと思います。
(2012-06-09)
○武田氏研究会第26回総会
 今年の武田氏研究会総会の日程が決まりました。

  日時:2012年6月16日(土)
  場所:帝京大学山梨文化財研究所 講義室
  総会:午後1時30分〜2時30分
  記念講演:午後2時40分〜4時30分
      家永遵嗣氏「甲斐・信濃における「戦国」状況の起点―秋山敬氏の業績に学ぶ―」

 振るってご参加いただければと思います。あ、毎度ながら非公式連絡ですので、念のため。
(2012-05-29)
○長野県の調査
 4月19日(木)・20日(金)と一泊二日で、長野県の調査に行ってきました。訪問先は、東御市立図書館・長野県立歴史館・上田市立上田図書館・真田宝物館、とかなりの強硬日程。正直、まだ疲れが抜けきっていない感じがします。

 長野県立歴史館での目的は、高野山蓮華定院供養帳の写本(丸山史料)の調査と撮影。今回で、全点を撮影することができました。いずれ原稿化する際に述べますが、蓮華定院で私が調査してきたものは、主に供養帳の清書本(下書きは一部しか残っていないようです)。丸山史料にあるのは、供養帳の下書きの写本です。問題は、記述に微妙な差異がある点。どちらをメインに翻刻するか…さすがに清書本と下書き両方を翻刻するのは難しいので、頭の悩ませどころです。ちょっと考える時間が欲しいのですが、清書本は高野山に行かないとみれないのに対し、下書きは歴史館に行けば閲覧できるからなぁ、とは思っています。

 長野県立歴史館と真田宝物館の間の移動は、かつては長野電鉄屋代線一本で行けたのですが、今年の3月で残念ながら廃線になってしまいました。かわりにバスが運行しているのですが、一時間に一本程度と非常に本数が少ない…。3月中に行っておけば良かったと思った次第です。

 真田宝物館では、恩田家文書・伏島家文書・矢沢家文書の中世分を閲覧。これだけでかなりな量です。現物をみて驚いたのは、矢沢綱頼宛勝頼判物が斐紙だったこと。紙質の点で、色々と興味深いものがありました。なお、矢沢家文書中にある天正7年の「源信綱」発給文書は、武田逍遥軒信綱に比定されていますが、花押型がまったく異なります。軍学の伝授という点からみて、どうやら上泉信綱に仮託された気配がありますが、断定できません。もう少し慎重に検討したいと思っています。
 あわせて、真田家臣団の家譜の紙焼きを拝見させていただきました。ただ残念なことに、初期の家臣についてはほとんど記述がありません。初期の重臣たちの没年を知りたかったのですが…。『真田町誌』で没年が明記されている重臣が結構いるんですが、出典が書かれていないんですよね。真田町を訪問して、町誌編纂史料を見せてもらわないとダメかなぁ。なかなか難しいところです。
(2012-05-03)
○国文学研究資料館の調査
 4月17日(火)に、立川の国文学研究資料館に行ってきました。私がリサーチアシスタントを務めていた頃は、まだ戸越にありましたので、なかなか立川は慣れません。自宅からは近く、通いやすくはなっていますし、移転後も会議で何回かお邪魔しているのですが…。

 今回の目的は、「真田家文書」に含まれていた新出の武田勝頼書状。馬場広幸「国文学研究資料館所蔵 武田勝頼書状について」 (長野市立博物館『博物館だより』79号、2011年)で紹介されているのですが、やはり原本を直接見たかったのと、法量を量りたかったためです。これは近刊の『武田氏研究』45号所収「『戦国遺文武田氏編』補遺」に載せるため。本文書は、天部が焼損していて、1〜2文字分欠損して裏打がなされています。つまり元の状態ではないということですが、どこまで破損しているのか。それで法量をはかってみたのですが、23.0×43.3でした。う〜ん、バランスがよろしくない。日付の位置を勘案しても、天部の破損は思ったよりも大きそうです。ですので、補遺における翻刻では、少し欠損部を多めにとってみました。
 この文書は、真田昌幸、山県昌満、小山田昌成、内藤昌月、春日信達に宛てて、築城普請の催促を命じたもの。まず興味深いのは、この5名が本文書発給時の宿老として認識されていた存在であったということ。そして問題は発給年と築城場所はどこかということ。馬場論文は、天正8年発給、新府城築城関連文書としています。それで多少迷ったのですが、とりあえず発給年は天正8年ヵとしておきました。8年か9年のものであることは間違いないからです。問題は城。実は勝頼の築城関連文書が出て来ると、必ず新府城と結びつけられるというのが、武田氏研究におけるセオリーです。ですが、これは大きな落とし穴。築城は他でもいっぱいしているからです。個人的には、沼津三枚橋城の築城にからむものか、とみているのですが、どうでしょうか。ただ、そうすると三枚橋城代春日信達が、築城を督促されているという奇妙な現象が生じてしまうということもあり、確証が持てないでいます。

 「『戦国遺文武田氏編』補遺」は4月末に責了しました。ですので、5月中旬には刊行されると思います。編集委員の一人として、刊行の遅れをお詫びいたします。
(2012-05-01)
○群馬県立文書館の調査
 去る4月13日(金)、群馬県立文書館にお邪魔してきました。目的は、沼田市の南端、下河田の検地帳の写真版です。真田信幸の手になる検地で、天正18年の横帳が1冊(これは原本)、文禄2年の竪帳が4冊(これは写)残されています。『群馬県史』資料編12近世4北毛地域2において、翻刻がなされているのですが(同書99〜101号)、文禄2年の検地帳は4冊のうち2冊しか翻刻されていません。近世史料は分量が多く、部分翻刻が常であるとはいえ、年代が早い史料ですから、非常に残念でもったいない。『沼田市史』にも収録されていないため、写真帳を閲覧・撮影しに行ってきたという次第です。何かの期会を見つけて、翻刻できればと考えています。ただ、検地帳に関する知識ってほとんどないんですよね。私は。それが最大の障壁です。
(2012-04-25)
○井原今朝男先生への御礼
 先日、国会図書館にも入っていない入手困難な論文に出くわしました。そこで、その論文の著者である国立歴史民俗博物館の井原今朝男先生に、お手紙でコピーを頂戴できないかと御願いしたのですが、御願いした論文だけでなく、他の論文の抜刷や、『国立歴史民俗博物館研究報告』157集(中・近世における生業と技術・呪術信仰)および『高井地方の中世史』という御著書までいただいてしまいました。正直ここまで手厚く(かつ早急に)ご対応いただけるとは思ってもみませんでした。井原先生には、厚く御礼申し上げます。

 特に『高井地方の中世史』は、須坂市立博物館歴史講座「高井地方の中世史」全7回を単著としてまとめたもの。この講座の成果は、雑誌『須高』に連載されていたことまでは知っていましたが、本になっているとは知りませんでした(2011年3月奥付、須坂市立博物館発行)。高梨氏・井上氏・須田氏を中心とする国人層の動向が克明に記されている、極めて貴重な一書です。時代の幅も広く、奈良・平安時代を扱った第一章から、慶長・元和期を扱った第七章までとなっています。

 お問い合わせは、須坂市立博物館まで。頒価2,200円とのことです。
(2012-04-23)
○『室町時代研究』3号の刊行
 『室町時代研究』第3号(2011年10月刊、A5判370頁)が刊行されたとのご連絡を頂戴しました。

  《小特集大覚寺の文書と聖教》 
大覚寺義俊と近衛家―将軍足利義晴と朝倉孝景の関係を中心に―木村真美子
越前国坂北庄をめぐる天皇と室町殿山家浩樹
【史料紹介】大覚寺所蔵「儼避羅抄」紙背文書渡邉正男
【史料紹介】大覚寺所蔵『勧修寺慈尊院私抄目録』末柄豊
【史料紹介】大覚寺所蔵『伝受目録醍醐』山家浩樹
【史料紹介】大覚寺所蔵『真恵置文写』末柄豊
  
韻類書の効用―禅林類書試論―住吉朋彦
飛鳥井重雅と冷泉明融小川剛生
南北朝期における平清盛の日宋交渉への評価について原美和子
花頂門跡再考末柄豊
室町幕府政所執事代の歴名について(其一)設楽薫

 頒価は1部1,800円(送料込)で、同一の宛先について、10部以上(第2号も含む)まとめて申し込みんだ場合は、1部について100円づつ割引するそうです。なお、第1号は品切れ、第2号も送料込みで1,800円とのこと。
 入手希望の方は、郵便番号・住所・氏名・必要部数を記入のうえ、室町時代研究会(下記)まで申し込んで欲しいとのことです。

 〒 113-0033 東京都文京区本郷 7-3-1
  東京大学史料編纂所・山家浩樹気付
  e-mail:muromachijidai.kenkyukai ★ gmail.com
  (★を半角の@にかえてください)
(2012-03-23)
○高野山・春の調査
 3月8日から12日まで、四泊五日で高野山に調査に行ってきました。宿泊先は、櫻池院(成慶院)・蓮華定院・本覚院と渡り歩き。お世話になった宿坊には、厚く御礼申し上げます。

 今回の調査の目的のひとつは、「真田幸隆」と明記してある蓮華定院供養帳の存在を確認することにありました。『信濃史料』第14巻が引用している供養帳(「一徳斎幸隆公」とある)そのものは見つかりませんでしたが、「一得斎幸隆公」と書かれている供養帳を確認。これをどう評価するかについては、いずれ文章で書こうと思っています。
 なお、今回の調査で、昭和26年に小県郡が調査した蓮華定院供養帳はすべて調査・撮影を終えた形となりました。あとは『信濃史料』が引用している謎の供養帳だけなんですが…。これだけが見つからない。ただ、それでもきちんとした知見は出せそうな感じです。

 また、『戦国史研究』第63号が刊行されました。深沢修平氏による論文「戦国大名武田氏の先方衆統制―取次と縁戚の役割分担―」が掲載されています。私の研究とも深く関わる論考ですので、興味深く拝読させていただいています。皆さんも、是非お手にとって御覧ください。
(2012-03-14)
○武田氏研究会第49回例会
 下記要項で、武田氏研究会の第49回例会(山梨郷土研究会共催)が行われることになりました。栃木のシンポと日程がかぶってしまいましたね。

  日時:2012年3月24日(土)13:30〜16:30
  会場:甲府市中央部市民センター中央公民館 会議室2
  テーマ:武田氏と城館
  参加費:500円(資料代ほか)

(1)佐々木満「武田氏館跡の発掘調査成果」
(2)山下孝司「武田氏城館の樹木の植栽」
(3)海老沼真治「天正8年前後の武田氏による城郭整備―新出の武田勝頼書状を素材として―」

 興味のある方は、ふるってご参加ください。
(2012-02-26)
○北関東3館連続シンポジウム「北関東の戦国時代―戦国の終焉―」
 2月もなかば過ぎ・・・。月日の経過はあっという間ですね。

 栃木県立博物館で、北関東3館共通テーマ展「北関東の戦国時代―戦国の終焉(しゅうえん)―」〈開催期間:2月18日(土)〜4月1日(日)、共催:茨城県立歴史館・群馬県立歴史博物館〉の一環として、シンポジウムが行われることとなりました。

 北関東3館連続シンポジウム「北関東の戦国時代―戦国の終焉―」

  日時:2012年3月24日(土)13:00〜16:30
  会場:栃木県立博物館講堂

基調講演「豊臣秀吉の宇都宮仕置」市村高男氏(高知大学)
報告1「小川台合戦―反北条連合の成立―」荒川善夫氏(栃木県立宇都宮高校)
報告2「神流川合戦―織田権力と北関東地域―」柴 裕之氏(東洋大学)
報告3「沼尻合戦―戦国末期における北関東の政治秩序―」戸谷穂高氏(東京大学史料編纂所)

 申し込み制で、先着200名だとのことです。興味のある方は、028-634-1311・1312へ。
 また展示の方では、那須家文書・皆川家文書などが展示されるそうです。
 詳しくは同館特設サイトを御覧ください。
(2012-02-17)
○2011年を振り返って
 明けましておめでとうございます・・・というには日が経ちすぎていますね。

 昨年は、拙著として『戦国大名武田氏の権力構造』(思文閣出版)を出版することができました。また、岩田書院から戦国大名と国衆シリーズの一冊として『甲斐小山田氏』も刊行できました。どちらかというと、とりまとめた成果を公刊することに専念した年であったように思います。
 武田氏研究全体としても、『戦国大名武田氏と甲斐の中世』『戦国大名武田氏の役と家臣』と2冊も論集が出版されました。また平山優氏が、4冊もの成果を刊行されました。個別論文とあわせて、実り多い年であったと思います。

 今年は、とりあえず第一弾として、『信濃』64巻1号に「高野山成慶院『信濃国供養帳』(二)―『信州月牌帳 三』―」を掲載させていただきました。また、『戦国遺文武田氏編』全6巻が完結して6年が経とうとしていますが、そろそろ補遺もかなり集まって参りました。現在、その取りまとめ作業に追われているところです。何らかの形で、公にできればと思います。

 本年もよろしく御願いいたします。
(2012-01-29)