ホームサイト説明研究業績 武田氏研究文献目録更新履歴リンク

雑記

2019年2018年2017年2016年2015年2014年2013年2012年2011年2010年 2008年
○2009年を振り返って
 いつのまにやら大晦日です。なんかあっという間に一年が終わってしまいました。といっても、毎年同じようなことを思っているわけですが。

 今年は、史料紹介ばかり執筆・発表をしていたような気がします。来年こそは、論文重視でいきたいなぁと思うのですが、今から書いたのでは掲載は再来年になるのが普通なわけで、なかなかそうはいきません。まあ、所謂「新年の抱負」を達成できたためしはないので、あまり書くのは止めておきましょう。口に出して自分を追い込もうとしたあげく、締切をずるずる引き延ばすのは毎度の事です。そもそも論文重視って、当たり前の気もするし。

 しかし年明け締切のゲラが、重なって郵送されてきたのには、予想していたとはいえ、げんなりしました。校正に人一倍時間がかかる人間としては、極めて合理的な方法だとは思いつつも、正月を前にして抜けた気を入れ直すのに一苦労です。それぞれ進行が予定より遅れているのは、私一人のせいではないことを願うばかり(その通り、と言われそうですが)。ただ三校ゲラの段階で、まだ執筆者名「丸山」の誤植が残っているのは、酷いと思いませんか、○○○○さん。思わずスキャンしてアップしようかと思いました(笑)。

 ちょっと武田氏研究全体を振り返ってみると、今年は少し層が薄い印象を受けます。なんか大規模な見落としがあるような(いくつかチェックし損ねている雑誌があります…年明けにやらねば)。といっても、ここ数年は論文集の類が多く、それが論文数を押し上げていたせいでもあります。決して研究が低調になったわけではありません。
 全体の傾向としては、史料論的なものが増えつつあることと、新出史料の発見が続いているというのは言ってもよいでしょう。戦国期の研究は、全体的に史料論が手薄であったのが実情。それが補われつつあるばかりか、系図など古文書以外にも幅が広がりつつあるというのは、非常に望ましい状況といえます。
(2009-12-31)
○『信濃』中世特集号 その2
 『信濃』61巻12号が刊行されました。中世特集号「中世文書と向き合う」となっており、丸島も史料紹介を掲載させていただいています。

【論文】
井原今朝男 「公家史料に見る外記の宣旨発給と吉良満義の信州発向」
花岡 康隆 「南北朝期信濃守護小笠原氏の権力形成過程」
村石 正行 「「預け状」再考―中世の契約と文書の作成―」

【史料紹介】
丸島 和洋 「高野山成慶院『信濃国供養帳』(一)―『信州日牌帳』―」

 今回紹介させていただいた史料は、成慶院供養帳のうち、信濃分の一冊目にあたります。副題を『信州日牌帳』としていますが、実際には題箋が剥離し、表題は不明。内容から日牌帳と判断したものです。『(信州日牌帳)』としようかとも思ったのですが、かえって分かりづらそうなので、単に『信州日牌帳』とさせていただきました。
 成慶院供養帳の史料紹介は、『信濃』では初めてですので、解説にはそれなりの紙幅を割きました。信濃国供養帳の中から、本帳を最初に翻刻しようと思ったのは、もっとも薄手であり、解説部分に余裕を持てるということが隠れた理由でもあります。解説内容は、『武田氏研究』で「甲斐国供養帳」を紹介した際のそれと重なる部分がかなりありますが、考えを改めた部分も少なくありません。そのあたりも、ご確認いただければ幸いです。

 掲載する写真の選択にはかなり迷ったのですが、特に文字がないため、表紙の写真は見送りました。その代わり、高遠諏方頼継と勝頼外祖母の供養箇所、前山伴野氏の供養箇所、保科正直の供養箇所の合計3枚を載せさせていただきました。最後の一枚は、見開き写真の中で、天正16年/文禄4年と慶長2年/慶長8年と、筆致が変化していることを見て貰う為でもあります。
 ただ紙幅の都合もあり、本文中では写真の掲載意図に触れ損なってしまいました。繰り返し強調した点ですが、成慶院供養帳の筆跡・筆致の年代変化は、各供養帳の成立時期と関わる重要な問題です。これについては、もう少し供養帳の翻刻紹介を進めた後に、本格的な検討をしたいと思っています。
(2009-12-26)
○武田氏入門文献の相次ぐ刊行
 武田氏に関する入門的著作が相次いで刊行されました。ご恵贈くださいました著者両氏には、この場を借りて御礼申し上げます。

 まず、平山優氏による『新編武田二十四将 正伝』(武田神社)。武田家重臣に関する分かりやすい伝記となっています。一般に知られた武田家臣像は、『甲斐国志』段階のものを離れたものではありませんでしたが、本書はそれを改める内容となっています。
 武田家臣に関しては、最近人名辞典の刊行が相次いでいます。『武田信玄大事典』(新人物往来社)、『戦国人名辞典』(吉川弘文館)、『武田信虎のすべて』『武田勝頼のすべて』『新編武田信玄のすべて』(新人物往来社)などがあげられますが、専門性が高かったり、高額なものが多いため、あまり一般向けとはいえませんでした。本書の叙述には、一次史料から明らかにできる史実と、二次史料に書かれた伝承との区別が、多少曖昧なところがありますが、ある程度やむをえないところでしょう。このあたりを深めたい方は、上述の専門書等にあたって頂ければよいと思います。
 実は学界にも報告されていない新知見がさりげなく記されている点も、興味をひきます。また実名などは、一般に知られた俗称で立項した後、( )で史料から明らかになる正確な実名を記す形が取られています。墓所などの写真を、多く収めている点も、興味をひきます。入門書としてご一読をお勧めします。
 なお、武田二十四将というのは、江戸時代に入ってから生み出された呼称です。構成員は一定していませんし、同時に武田家臣として存在したわけでもありません。この点は、本書で丁寧に説明されていることですので、ご確認ください。

 もう一冊は、柴辻俊六氏『信玄と謙信』(高志書院、2500円税別)です。武田・上杉氏に関する通史を、対比的に叙述した書ということになります。ご本人も記されていますが、柴辻氏が、上杉謙信に関する専門的叙述をしたというのは今までなかったことです。戦国大名研究は「蛸壺化」する傾向にありますから、武田氏の専門研究者が、他大名と比較検討をするという点は、非常に興味深いものがあります。
 頂戴したばかりで、まだ十分に読み込めていないのですが、図表や写真が多く収録されている点は、やはり当時の状況を考える上で、有り難い点といえるでしょう。ただ一点だけ、元亀三年の軍事行動を、上洛説の形で断じている点は、やや気になりました。畿内近国勢力に上洛を喧伝していたという事実と、信玄が上洛を即座に実行する意向であったかは、必ずしも一致する話ではありません。「実行に移されなかった意図」を断言していいものかは、正直迷います。このあたりは、確かに一般の興味を引く話ではあるのですが、様々な考えが成り立ちうるというラインでとどめておいたほうが良いというのが私見なのですが、いかがでしょうか(このあたりの愚見は、『新編武田信玄のすべて』で書かせていただきました)。もちろん、近年唱えられている説の中には、明らかに成り立ちがたいと思われるものもあるのは事実ですから、氏がこの点を強調した意図は忖度できるのですが。
 いずれにせよ、武田氏に関しては近年論争となっている事項も多いですから、柴辻先生の最新の知見を通覧できることを、喜びたいと思います。
(2009-11-10)
○甲駿相三国同盟シンポジウム
 なんかシンポジウムの連絡ばっかになっていますが…。
 11月3日(火・祝)に、沼津市民文化センターで「後北条と沼津」というシンポジウムが行われるそうです。国民文化祭・しずおか2009というイベントの一環とのこと。

シンポジウム「後北条と沼津」
  日時:平成21年11月3日(火・祝) 13:00〜16:00
  場所:沼津市民文化センター 大ホール

【基調講演】
  小和田哲男氏「駿東をめぐる 三国志」
【パネルディスカッション】
  黒田基樹氏
  前田利久氏
  平山優氏

 パネラーの並び順からすると、この場合「相駿甲三国同盟」と呼んだほうがよいんですかね。戦国時代の同盟の通称は、通常本国の国名から一文字とって付けられますが、人によって並べ方が異なります。ようは、自分の研究している大名が先頭に来るだけの話なので、正直どうでも良いことなんですが。私の場合、慣れた並び順はタイトルに挙げたものです(笑)。

 ※終了しました。
(2009-10-25,11-10追記)
○井田文書のシンポジウム
 あれ、いつのまにか事前申し込みの締切間際になってしまいました。11月7日(土)に茨城県立歴史館で行われる、「井田文書」原本発見・寄託記念のシンポジウム(「中世常陸・両総地域の様相―発見された井田文書―」)。10月16日が申し込み締切だそうですので、結構ぎりぎりです。詳細は、茨城県立歴史館のサイトを参照。「各種行事・講座」から申し込みページへいけますし、またトップページにリンクされているPDFに詳細が載っています。ググっても歴史館のサイト以外は引っかからないようなので、ここにシンポの詳細を記すのは控えます(申し込み締切近いし)。直接歴史館のサイトでご確認ください。
 「井田文書」は、従来写で存在は知られていた文書群なのですが、今年になって原本が発見され、同館に寄託されました。小弓公方や千葉氏、後北条氏から受け取った文書によって構成されており、後北条氏の「着到定書」などは、しばしば利用されてきたものです。原文書が発見されたこと自体、非常に喜ばしいことですが、迅速に企画をうちたてて一般にその意義を周知しようとする同館の姿勢も、高く評価されてしかるべきものだと思います。

 ※終了しました。
(2009-10-11,11-10追記)
○下野のシンポジウム
 栃木県立文書館主催の、シンポジウムが開催されるそうです。事前申し込みが必要とのことですので、栃木県立文書館のサイトをご参照ください。

戦国史シンポジウム「下野の地域権力―宇都宮、小山、那須氏は『戦国大名』か―」
  日時:平成21年11月21日(土) 10:00〜16:00
  場所:とちぎ福祉プラザ1F 多目的ホール

【基調講演】
  市村高男氏「戦国期の列島と下野―地域構造と権力―」
【報告】
  荒川善夫氏「永正〜天文期の東国国衆家内訌の背景について」
  江田郁夫氏「戦国期家中の特質―宇都宮家中を中心に―」
  黒田基樹氏「下野国衆と小田原北条氏」
  齋藤慎一氏「鎌倉街道中道と下野国」
【パネルディスカッション】
  司会:松本一夫氏


 そもそも「戦国大名」の定義は、学界内で共通理解があるわけではありません(もっとも、共通理解のある学術用語というのは、意外に少なかったりします)。その一要因として北関東に存在するような中規模地域権力を、どのように位置づけるかという問題があるわけです。私も是非伺いたかったのですが、当日は所用があり、ちょっと残念。

 関連して、栃木県庁内昭和館3F展示室で、特別展「下野の戦国時代」をやるそうです。会期は10月30日(金)から11月26日(木)まで。新出文書の展示もするそうですので、こちらは是非参観したいです。

 ※終了しました。
(2009-10-05,11-30追記)
○『年報三田中世史研究』16号刊行
 慶應の中世史関係者による学術同人誌『年報三田中世史研究』16号が刊行されました。私が同誌に参加したのは、1999年刊行の6号が最初でしたから、ちょうど10年が経過したことになります。毎年、日本古文書学会の大会にあわせて刊行している雑誌ですが、中世史の院生数が数名程度の慶應で、定期刊行を守り続けているのは、誇ってもよいように思います。手前味噌極まる発言ですが。

◆『年報三田中世史研究』16号(2009年10月)

  高橋一樹「鎌倉幕府における権門間訴訟の奉行人」
  小嶋教寛「兵庫関の税収使途に関する一考察―鎌倉末期の兵庫関結解状を素材に―」
  丹村 義「戦国家法にみる御成敗式目の影響とその背景」
  丸島和洋「慶應義塾大学所蔵相良家本『八代日記』紙背文書の翻刻と紹介」


 今回は久しぶりに、ほんの少しながら編集作業を直接手伝わせていただきました。相変わらず、論文の構成から語句の用法にいたるまで、熱気溢れる議論が戦わされていました。数年前までは、誰かの家に連泊し、論文指導と編集作業をやっていましたが、最近は泊まりがけという形はあまり取っていないようです。それでも大学が閉まる時間までやっているわけですから、さほど変わりがあるわけではないともいえます。私はこの作業を通じて、論文の書き方や、批判的に論文を読む方法を先輩方から教わったものですから、色々と感慨深いものがあります。自分の論文をまとめるだけで精一杯だった段階から、編集側に回った時に、執筆者よりも編集側のほうが精神的重圧が遥かに大きいことに気がついたのは、大変な衝撃でした。

 会の運営に携わった期間が比較的長めであったこともあり、毎年刊行時期が近づくと、ついついOBの立場を忘れ、編集に口を挟みたくなってしまいます。ただそれは、後輩の成長を阻害することと同義でもあるわけで、今は「人に任せる」ことの大切さを、肌で教えて貰っているのかもしれません。

 今回書かせて頂いたのは、『古文書研究』65号で紹介した『八代日記』原本の紙背文書53点、挿入文書6点の史料紹介です。紙背には仮名暦も多数あるのですが、紙幅の都合で今回は紹介を見送りました。書状類をすべて翻刻した形になります。ただ、料紙が非常に薄手である上、細字で書かれた追而書も多く、翻刻の精度には正直自信がありません。
 そのため、写真を相当数掲載させていただいたのですが、表側本文の文字と重なっている部分が多く、正直掲載した写真で判読することはかなり厳しいです。筆跡の比較のためでもあったのですが、それも正直厳しい感じ。紙背側の文字を強調したデータを入稿したのですが(紙背の文字を濃く、表側や料紙そのものは薄め)、料紙そのものに焦点をあわせた印刷となってしまったようです。難しいだろうなと思ってはいたのですが、想像以上に濃い印刷でした。正直なところ、今回は料紙が奇麗にうつるかどうかはどうでも良かったわけで、意図がうまく伝わらなかったようです。印刷所との意思疎通だけは、自分自身であたるべきだったと反省しきりです。
 今回写真掲載した文書のうち、24号文書と50号文書は、『古文書研究』65号により鮮明な写真が掲載されていますから、そちらをあわせてご参照ください。なお、同論文中で翻刻した史料が数点ありますが、一部読みを改めた箇所があります。仮名で書かれた部分が多いこともあり、本当に読みづらいのです…。
(2009-10-03)
○武田氏新出史料 その2
 『戦国史研究』58号が刊行されました。

 平山優氏の御論考「長閑斎考」が掲載されています。同誌の小論コーナーである“羅針盤”のひとつですが、新出の武田家朱印状写から、通説における人物比定の誤りを導き出した、武田氏研究者の必読論考。史料中に出て来る人物がいったい誰なのかというのは、案外難しい問題です。フルネームで書いてあることがまずないためですが、江戸時代以来の誤解に左右されている場合も少なくありません。『甲陽軍鑑』の史料論にも関わる原稿でもあります。

 同誌には、私も「岩松持国の改元認識―「正木文書」の到来書をめぐって―」という小論を書かせていただきました。15世紀を主に扱った原稿を発表するのは初めてです。武田氏をメインに扱っていると、室町期の史料になかなか御目にかかれないせいなんですが。
(2009-09-06)
○Amazon特集
 気分転換というか、現実逃避に『週刊東洋経済』2009/08/29号のAmazon特集。議論は多岐に亘っていますが、1.ネット販売と書店販売の棲み分け、2.書籍の電子化(電子ブック)の普及問題、が主なのでしょう。どちらも、既存の書籍流通システムやビジネスモデルに一定の変革を促すものであるからです。

 斜め読みしかしていませんが、個人的に直接関わる論点で、気になったことは二点。ただし、どちらもAmazon研究本論部分ではありません。
 ひとつは本の「読まれ方」が変わりつつあるというIT関係者の主張。Amazonの存在そのものが、ネットに依拠しているのだから当然の結論なのですが、ネットと同様に好きな箇所・必要な箇所だけを検索・保存して読むあり方が広まっていくという指摘は軽視できません。該当コラムの執筆者は私より数歳上の方のようです。私も、大学在籍中に図書館からカード目録が撤去され、OPACだけでの検索に置き換えられた世代にあたりますから、その方の言いたいことは理解できます。ただ、電子書籍化の動きがどこまで進むかは、私としてはやや懐疑的ではありますが。
 執筆者は基本的にビジネス書(実用書)を念頭におかれているようですが、専門書においてもこの傾向は強まるでしょう。学術雑誌の電子化の動きも、現実に進行中です。もともと専門書は、頭から通してすべてを読むのではなく、必要な箇所(必要な章)だけを読むという側面を有していますし、広い範囲への成果公刊という観点からは望ましいものでしょう。しかしながら、ここには「本の読み方」そのものの世代間格差(あるいはコンピュータリテラシーに基づく格差)の広がりと、それに基づく思考法の変化という重い問題が横たわっています。それで生じる利点と弊害がどのようなものか、常に考えていく必要があるのだと思います。既に生じている問題ではありますが、今後さらに広がっていくことは間違いありません。

 もう一点気になったのは、筑摩書房社長の提言でした。それは、「日本の本の価格はドイツなどと比べ安すぎる。2〜3割は(定価を)上げなければ。(中略)大手も続いてほしい」という主張です。なお念のためにいっておくと、筑摩の主張の力点は、出版社と大手取次との力関係改革の動きにあったと思うのですが、小見出しには敢えてこの発言が選ばれていましたから、雑誌側の編集意図を想定して読むべき文章かもしれません。
 たしかに、出版社を取り巻く厳しい環境からすれば、出てしかるべき議論かもしれません。ただ、日本と同様に再販制を有するドイツを比較事例に選んでいる点からは、どうしても「現在の商環境を変えずに」という意識が透けて見えます。こうした出版側のみの事情による大幅な値上げが、果たしてどこまで購買者に受け入れられるものなのか。
 既に、少し前だったら一冊で販売されたであろう書籍が、文庫化にあたって上下二分冊化されるといった現実的な「値上げ」行為は顕著に見受けられます。当然選択しうる企業努力の一環と思う反面で、こうした発言を目にすると、何だか危険な賭けをしているように思えてなりません。
(2009-09-05)
○恒例の高野登山
 先週、高野山の調査に行ってきました。毎年のことではありますが、宿泊をさせていただいたお寺の皆様には、大変お世話になりました。と、ここで御礼を申し述べてもしょうがありませんね。
 初めて調査で登山したのが2002年のことですから、いつのまにやら8年目。ここのところ、「夏に必ず参加する調査や合宿」というものがあまりなくなっているので、私にとっては数少ない「夏の風物詩」になりつつあります。「山下」と違って、日差しがあっても湿度が低いものですから、日陰に入るとほとんど暑さを感じません。夏に訪れるには、最適の場所と言って良いでしょう。秋や冬に登山した時は、寒さで凍えることになりましたが…。
 夏とは言え、「山上」なのですから、普段はきちんと長袖を用意していくのですが、今年は長袖どころかジャケットすら羽織らずに出かけるという大失態。片道6時間かかるものですから、移動中に寝ればいいやと、前日徹夜で調査準備をしていたところ、ぼおっとして服装関係の準備がいい加減になってしまったのです。折悪しく、登山当日から急激な冷え込み。「山下」でも冷え込んだそうですから、「山上」では当然それ以上でした。徹夜で準備をして調査に行く、という発想そのものを改めたほうが良いのかも知れません。
(2009-09-02)
○幸福大夫の没年
 大薮海氏より「高野山成慶院『伊勢国日牌月牌帳』の翻刻と解題」(『三重県史研究』24号)の抜刷を頂戴しました。
 高野山成慶院(現櫻池院・成慶院)に伝わる供養帳の翻刻です。伊勢を対象としたものということで、気がつきにくいのですが、武田氏研究者にとっても関係のある研究です。というのは、伊勢神宮の武田氏担当の御師・幸福大夫の供養が記されているからです。これにより、幸福虎勝(日向守)の没年が丙辰(弘治2年)4月21日であることが確定されました(法名は天宝鏡円禅定門)。供養依頼者の中には、幸福光広(右馬助)の名も見えます。大薮氏も言及されていますが、同じ武田家・甲斐国と師檀関係を結んだ存在として、高野山成慶院と伊勢神宮幸福大夫の関係は、今後追究していく必要があるでしょう。
 成慶院の調査成果は、丸島も甲斐国分を中心にいくつか史料紹介を行っています。あわせてご参照いただければ幸いです。
(2009-07-26)
○匿名か、実名か
 このサイトを開設する時、予想外に悩んだことがふたつあります。ひとつはサイト名をどうするかという些細な話しですが、いまひとつは、いささか深刻な問題を孕んでいました。それは、実名で運用すべきかどうか、という問題です。本サイトの設立目的は、柴辻先生のコンテンツ(武田氏研究文献目録)を継承することにありましたから、関係者には管理人の正体は一目瞭然でしたが、それでもまだ迷わざるを得ませんでした。実名で運用することに伴うリスクや、責任というだけではありません。それは、他の方の研究成果に言及する際、批判的に取り上げることが難しくなることが、明らかであったためでした。
 批判というものは、相手が同等の反論舞台を有していなければ、一方的な「非難」にしかなりません。ウェブサイトの閲覧層というものは、刊行書籍の読者層とはまだ一致する状況にありません。自前のウェブサイトを開設している研究者が多くない以上、サイト上で批判を加えることは、一方通行の「非難」になる可能性が極めて高いのです。ましてや私のサイトはブログ形式を取っていませんから、コメント欄に反論を書くこともできません。これでは、公正な批判にはならないと思うのです。研究者の中には、インターネットの利用習慣のない方も少なからずおられますから、批判されたことすら気がつかないという事態は容易に想定されます。これでは、陰口を叩くことと大してかわらないわけで、私としては本意ではありません。学術論文への批判・反論は、学術論文や書評(学術誌に掲載するものに限定)で行うのが本筋であることは、いうまでもないわけですが(日本における書評に、好意的に書く慣習があることはひとまず措きます)、これは同じ読者層を相手に議論を戦わせることができるためです。

 では匿名でサイトを運営すればよいのでしょうか。言うまでもないことですが、匿名での発言は責任を放棄することに他なりませんから、何の解決にもなりません。日本のインターネット社会は、匿名性が強まる一方ですから、海外のように研究者同士がウェブ上で実名での議論を戦わせる、という文化はなかなか根付きそうにないように思います。もっとも、私はすべての人間が実名で発言すべきというつもりはありません。匿名だからこそ、いえることも多いからです。ただ、自分自身には実名での発言を今後も課し続けたいとは考えています。

 何故このようなことを気にするのか。それは他の方の研究を取り上げる際に、是々非々での評価が行いづらいということに行き着くからです。念のためいっておくと、本サイトでこれまで僅かながらでも取り上げてきた研究・博物館展示感想は、私の本音を記しており、是々非々で行っているつもりです。ただそれは、私が基本的に評価する議論しか取り上げられない、ということを意味します。別に批判的な文章を書きたいというわけではないのですが、予定調和に終わってしまう観は否めません。ここまで書いてきた内容と矛盾するようですが、この点で、匿名サイトが時々羨ましくなるのです。
(2009-07-20)
○武田家臣団の基礎研究
 武田氏というのは、意外に家臣団に関する基礎研究が薄い大名です。といっても、家臣団研究が盛んな戦国大名というのは、後北条氏くらいしかないというのが実情なので、この表現は必ずしも適切なものとはいえません。『織田信長文書の研究』に代表されるように、当主発給文書のみを集成し、研究が進められた状況が長らく続いていたからです。その状況は、現在でも必ずしも変わってはいません。政治というものは、トップの命令だけですべてが決まるほど単純ではないことは、現在の政治情勢を見ても明らかではないでしょうか。家臣団の研究を疎かにしては、大名権力の表層をなぞることにしかならないように思います。

 そうした中で、地道に武田氏の家臣団研究を重ねて来られたのが服部治則氏でした。氏の研究の一部は、一昨年著書としてまとめられ、『武田氏家臣団の系譜』という題で岩田書院から刊行されています。近年、従来信じられてきた武田家臣の実名や系譜関係の誤りが相次いで指摘されていますが、その嚆矢となったのは服部氏の研究であるといってよいでしょう。
 こうした誤りの背景には、近世に成立した系図・軍記物の記述や、伝承への史料批判が不十分であったという問題があるわけですから、単なる人名の訂正と片付けることはできません。もちろん、こうした修正の多くは新史料の発見による場合が大半ですので、当時の史料状況を度外視して、先学を批判するというのも正しい姿勢とはいえませんが。

 今年に入って、武田氏滅亡後の家臣の動静などを研究して来られた早川春仁氏が、『武田氏遺臣の研究』という本を私家版でまとめられました。甲府の書店で購入が可能とのことです。

第一編 「中尾之郷軍役衆」の研究
  第一章 まえがき
  第二章 軍役衆名前帳に現れる士の考証
  第三章 中尾之郷軍役衆の将士間の親族関係
  第四章 中尾村変遷の概要
第二編 武田氏遺臣及び関連の士の行方
  第一章 彦根井伊家における武田氏遺臣について
  第二章 水戸徳川家における武田氏遺臣について
  第三章 尾張徳川家における武田氏関連の士について
  第四章 米沢上杉家における武田氏関連の士について
  第五章 武田氏関連の士に関する小論
第三編 三河から来甲した早川氏の研究
  第一章 武田家に仕えた藤原姓早川氏について
  第二章 早川半兵衛の子供達について
  第三章 土浦藩土屋家の創立と早川氏の関係
第四編 中尾村早川氏の研究
  第一章 武田氏族早川氏の始祖「早川八郎」考
  第二章 中尾神社を取巻く早川一族
  第三章 中尾村早川氏の変遷
  関連史料集

 初出一覧がないのが残念ですが、武田氏の中〜下級家臣を考える上で、極めて貴重な成果であることは言うまでもありません。

 こうした書籍を前にすると、歴史学の土台が基礎的事実の確定にあることを改めて実感します。基礎的研究は、それ単体ではめざましい成果をあげることが難しいですから、どうしても疎かにされがちです。しかしこうした土台を固めることなくしては、理論的・横断的な研究も成り立ちえないのです。
(2009-07-13)
○料紙科研ウェブサイトの公開
 筑波大学山本隆志先生のウェブサイトが公開されました。

  山本隆志研究室 http://tyamamo.web.fc2.com/

 現状では、山本先生が研究代表となっている科学研究費「東国地域及び東アジア諸国における前近代文書等の形態・料紙に関する基礎的研究」の経過報告が中心となっています。この科研は、私も協力者として関係させていただいているもので、中世文書の料紙の繊維を、顕微鏡を使って調査するなど、得難い経験をさせていただいています。昨年高知で行った紙漉きの実習は、惨憺たる結果に終わりましたが・・・。
 同サイトには、内容的に関連する科研の成果報告書(富田正弘研究代表)より、大川昭典先生の論文2本を転載させていただいています。ウェブ上で再掲載した理由は、この二本の論文に、文書料紙の繊維を撮影した顕微鏡写真が収録されているためです。カラーで撮影された写真なのですが、刊行された報告書には、残念ながらモノクロでの掲載になってしまいました。そこで、あらためてカラー写真を収録した論文データを、公開する運びとなった次第です。詳しくは、同サイトを御覧ください。
(2009-06-22)
○山梨県立博物館企画展 「金GOLD 黄金の国ジパングと甲斐金山展」見学
 6月15日まで開かれている、企画展。ようやく、終わる前に紹介ができました。・・・といっても、見学にいってから相当の日数が経過してしまいましたが。
 いわゆる巡回展示ですが、山梨独自の要素が追加されています。『軍鑑』に信玄が恩賞として手ですくって与えたとある素朴な「碁石金」と、刻印の入った近世の甲州金の違いは、なかなか味わい深いものでした。月江寺の校割帳(什物帳)も、今回の展示に関わる記述のある部分だけの展示でしたが、いつか全体を拝見してみたいものです。

 今日は某学会の大会でした。相も変わらず、書籍売り場ばかり彷徨っていたわけですが。
 書籍売り場の雑誌団体は、私が行きだした頃に比べて、団体数が減少しているような気がします(きちんと調べたわけではないですが)。やはりあまり雑誌は売れない、ということなのでしょうか。理由をきちんと分析しだしたらキリがないとは思いますが、学術雑誌、特に院生同人誌や地方誌の活力低下は、学界全体の底上げという観点からみて、明らかにマイナスです。
 一方出版社のほうは、相変わらず学会合わせの新刊ラッシュです。『戦国遺文』(東京堂出版)の新刊としては、『佐々木六角氏編』(全一巻)が初売りされていました。同シリーズではじめての、畿内近国を扱ったものとなります。畿内近国は、文書史料集の刊行が少ない地域ですから、いろいろと大きな意味がありそうです。
(2009-05-24)
○武田氏新出史料の紹介相次ぐ
 今年に入って、立て続けに武田氏関係史料の紹介が続いています。
 ひとつは私も関わっているもので、『武田氏研究』第39号に掲載されたもの。

  平山優・柴裕之・丸島和洋「新発見の「金子元治氏所蔵坂本家文書」について(上)」

 近世に旗本となった武田遺臣坂本家の家伝文書です。武田家龍朱印状2通と、徳川家康福徳朱印状1通、彦坂元正判物1通、徳川秀忠朱印状(領知宛行状)1通などが含まれています。このうち龍朱印状2通と、彦坂の判物は完全に新出。家康と秀忠のものは、写の形で知られていたものでした。
 近世文書も一部紹介対象としましたので、一回では紹介しきれませんでした。残りは(下)として次号掲載予定となります。

 おかげで困った事態が生じてしまいました。3人連名になっていますが、今回の掲載分には、実は私が執筆した部分はまったくありません。逆に次回は私の執筆部分だけとなる予定です。片方だけだと、「なんだこりゃ?」って感じですね…。

 もうひとつは、同じく武田遺臣の山本氏の家文書。『山梨県立博物館研究紀要』第3集に掲載されています。

  海老沼真治「群馬県安中市 真下家文書の紹介と若干の考察―武田氏・山本氏関係文書―」

 武田晴信判物1点に書状が1点、龍朱印状2点、結城秀康書状(黒印状)1点という構成です。なお、文書写真は口絵掲載となっていて、うっかりすると見落としかねないので、注意。全点カラー掲載なのは大変ありがたいんですが。
 このうち晴信書状は、完全新出のもので、内容も大変興味深いものとなっています。まだ現物を拝見したことはありませんが、そのうち見てみたいものです。
 こちらは山梨日日新聞でも、記事として紹介されています。手っ取り早く写真を御覧になりたい方は、そちらで。

 なお、先日密かに2009年分の研究文献目録を更新しています。上記雑誌2紙の収録論文も収録。
(2009-05-18,05-24修正)
○山梨県立博物館 新指定文化財展「甲斐の国のたからもの」見学
 気がつけばもう3月です。以前このサイトでも言及した山梨県立博物館の新指定文化財展「甲斐の国のたからもの」を、会期ギリギリで見学することができました(ようは、もう終わってしまったということですが)。
 今まであまり注意してみなかったもので、気になったのが小山田信有(二代目、出羽守)画像。父である初代信有(越中守)が天文10年(1541)に没したことで家督を継ぎ、同23年(1554)に死去する人物です(三代続けて「信有」を名乗るので、紛らわしい)。出羽守信有の没年は、40歳過ぎくらいだろうと考えているんですが、画像をみると髪も鬚が白いんですよね。ちょっと没年齢(わたしの勝手な推定ですが)と釣り合わない気もします。もっとも、容貌そのものからは老齢という印象を受けなかったので、40代ならぎりぎり問題ないのかもしれません。小山田氏は、三代目信有(弥三郎)が最後の当主信茂と別人であることが、近年ようやく確定したばかり。まだまだ考える余地がありそうです。

 展示史料中で、一番興味深かったのは、近世の右左口宿で作成された石櫃と厨子でした。石櫃には徳川家康朱印状が収められ、厨子の中に安置されていたそうで、近世村落の重書管理のあり方をはじめ、様々な問題を考えさせられました。厨子は幅2.1メートル、高さ1.2メートルとかなりの大きさ。これもやはり、写真ではイメージがつかみにくい史料といってよいでしょう。図録の写真が小さかったのが、ちょっと残念。
(2009-03-08)
○卒業論文へのケリ
 慶應義塾大学三田史学会刊行の『史学』77巻2・3合併号に、論文「戦国大名間外交における取次―甲斐武田氏を事例として―」を掲載させていただきました。内容としては、『戦国大名武田氏の権力と支配』所収の「武田氏の領域支配と取次―奉書式朱印状の奉者をめぐって―」と対になるものです。
 実はこの論文、卒業論文の第三章が元となっています。卒論については、第一章第一節と第二章をまとめたものを『武田氏研究』22号(2000年)に、第一章第二節を増補したものを『年報三田中世史研究』7号(同)において活字化しました。ところが、肝心の第三章だけは、口頭報告を何度か行っただけで、論文の形で発表することは先送りにしてきました。
 卒論を提出したのは、2000年1月のことですから、実に9年越しでの活字化ということになります。現在の形に近くなったのは、修士論文(2002年1月提出)に第三章として収めたものですが、そこから数えても7年近いものがあります。文章をまとめるのにかかる時間には、かなり波があるほうですが、さすがにここまで時間がかかるとは、想像だにしませんでした。いくつか考えがまとまりきらない部分があり、周辺事項を論じたものを優先したという事情もあります(自分で書いていても、嘘くさい話にしか聞こえませんが)。
 いずれにせよ、ようやく卒論にケリがついたような気分で、多少ホッとしています。あくまで、ひとつの区切りに過ぎないことは、言うまでもありませんが…。
(2009-02-11)
○山梨県立博物館 シンボル展「信玄堤」見学
 先日、山梨県立博物館のシンボル展示「信玄堤」を見学してきました。小展示ですが、結構力が入っています。龍朱印状と違って、武田家獅子朱印状が三通も並んでいるというのは、なかなか目にする機会はないのではないでしょうか。図録(リーフレット)も200円とリーズナブル。ただ紙面では治水用の遺構のイメージはなかなかつかめません。こればっかりは、現物を見ないとどうしようもない面があります。会期は1月19日(月)までと、あと少し。感想を書くのが遅すぎますね。

 山梨県博の今年の目玉は、1月30日(金)〜3月2日(月)に行われる新指定文化財展「甲斐の国のたからもの」ではないかと思います。いわゆる新収史料展ですが、個人的に注目しているのは、「武田信玄陣立て図」です。今回、先行して実物を拝見させていただく機会を得ましたが、戦国期のもの(少なくとも良質な写し)という評価を、強くしました。先入観なしに見て頂きたいと思いますので、理由はここでは書きませんが。
 記載されている人名からすれば、永禄後半頃のものである可能性が高いかと思います。従来、陣立て図は豊臣秀吉のものが初見とされてきましたから、最古の陣立て図である可能性を秘めたものとなるわけです。
 実はこの陣立て図の史料性については、批判的なご意見を文章で拝見したことがあります。ただ文章を拝読した限りでは、現物や写真を前にしての史料批判ではないように感じました。折角の展示ですから、これを機に、議論が活性化することを望みます。
(2009-01-14)