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雑記

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○2010年を振り返って
 今年は、何やら色々なことにチャレンジをさせてもらった年だったように思います。比較的、シンポジウムなど口頭で報告をさせていただく機会が多かったのは非常にありがたいことでした。昨年の大晦日に、「来年こそは、論文重視で」と書いたような気がします。というか、書きました。蓋を開けてみると…、論文2本に史料紹介2本、一般書への参加2件+シンポジウムというのは、まあまあといったところでしょうか。もっとも質が伴っていなければ、意味が無いわけですが。

 武田氏研究を振り返りますと、栗原修『戦国期上杉・武田氏の上野支配』(岩田書院)の刊行がもっとも大きかったと思います。第三編が武田関係(箕輪内藤氏・真田氏)となるわけですが、実は武田氏において領域支配研究で一書がまとめられたというのは、画期的なことなのです。武田氏研究は、国衆(国人領主)研究、特に本国の穴山・小山田氏研究が先行し、城代領研究は立ち後れていました。栗原氏の研究は、それをカバーした重要な一書になります。補註も含め、かなりの加筆がなされている点も、書き下ろしの序章・終章とあわせて必読の一書といえるでしょう。…って紹介文を書くのが遅すぎます(謝罪)。

 私自身の絡みでいいますと、『武田氏年表』の刊行、および山本菅助シンポジウムへの参加が大きなものでした。後者は、昨年(2009年)史料紹介がなされた「真下家文書」に加え、その後の山梨県立博物館の追跡調査成果で確認された「沼津山本家文書」から、山本菅助の「実像」(もちろん現時点でのもの)に迫ろうとしたものですが、予想外に色々なことが分かって驚かされました。
 なお、この成果自体は公刊されていませんが(何とかしません?)、平山優「武田家臣山本菅助の実像―「真下家所蔵文書」と「山本家文書」の発見―」(安中市学習の森ふるさと学習館『西上州の中世』) において概要が記されています。なお、この図録自体、非常に重厚な仕上がりになっています。

 昨年も書きましたが、このところ、武田遺臣の家伝文書発見が相次いでいます。その最大の成果が、かつて架空の人物とされた山本菅助の家伝文書であった、というのは何とも不思議な巡り合わせとしか言いようがありません。
 来年以降は、こうした新出文書をも踏まえた成果の刊行が望まれるところでしょう。・・・仕事しよ。
(2010-12-31)
○漢数字あれこれ
 いつのまにか年の瀬です。あんまり実感がないんですが…。まあ、ちょっと一息というところでしょうか。各所に御迷惑をおかけしました。じゃなくて、しています。

 学術誌の編集や、自分の原稿の校正をしていると、表記の統一ミスがやたら目につきます。一番わかりやすいのが、10の漢字表記を「十」(いわゆるトンボ十)と書くか、「一〇」と書くかなのですが、結構細かいルールを設けている人がいるかと思えば、あまり気にされない人もいて、いろいろですね。編集をしていると、最も統一して欲しいところなのですが。
 わりと西暦以外は「十」で統一、という雑誌や出版社が結構多いような気がします。たしかに「天文一二年」よりは、「天文十二年」のほうが視覚的にわかりやすい。私個人は、「一〇」で統一することに決めているので、先方のルールを忘れて、後で赤入れが必要になってくることが結構あります。学部時代に決めたのですが、「一〇」に統一しておけば、ワープロソフトで「十」を検索すれば打ち間違いがすぐ引っかかるわけで、ミスが探しやすいと個人的には思っています。字数の削減につながるから、とか他にもいくつか理由はありますが。

 半年程前のことですが、やたら気になったのが、漢数字の「一」。縦組みの原稿で、「一」だけ半角サイズになっているのを結構目にしたのです。具体的に言うと、「一」にだけ二分(にぶん)処理がなされて、前後の空白が削られているわけで。某誌の校正ゲラが回ってきたらそうなってまして、文字の大きさがそこだけ変わるので読みづらい上に、編集担当としては行送りの計算もやりづらい。えんえんとマーカーで塗って修正指示を出したのですが、今度は前後の空白が微妙に多く空いたゲラが出校。やっぱり文字揃えが合わないわけです。もともと括弧類は半角になることが多いのですが、これは詰めたほうが間延びせずにすむので良いのです(段落調整にも使うし)。それに対し、「一」はどうしても目が受け付けませんでした。だって文章の一部なんだから。
 そのとき、気になって一般の雑誌やら漫画やらを眺めたのですが、そこでも「一」が半角になっていることが結構多かったわけです。それで、今同じ雑誌の最新号を見てみたら、そんなことはなくなっているよーな。あれ、いつのまに戻った?それとも、見落とし?
 詳しくないのでよくわかりませんが、DTPソフトの設定の問題だったのでしょう。正直、読みづらいし見栄えも悪いと思うんですが…。
(2010-12-19)
○山梨県立博物館 特別展「甲斐源氏 列島を駆ける武士団」
 山梨県立博物館の開館5周年記念特別展「甲斐源氏 列島を駆ける武士団」を見学してきました。展示替え後ですので、後期の展示です。
 新羅三郎義光にはじまり、安芸武田・若狭武田・小笠原・三好・南部・蠣崎と、甲斐源氏の史料がずらりと並んでいます。
 興味深かったのは、永禄四年閏三月付の小笠原貞虎(貞慶)書状(大阪府「本山寺文書」)。図録には、同一成巻されている小笠原長時書状も掲載されています。ここで貞虎が「就今度下国」といっている点に注目。同月四日付の御内書(「上杉家文書」)で、足利義輝が上杉謙信に小笠原長時の帰国支援を命じている事実とぴったり符合します。第四次川中島合戦の約半年前のことですので、いろいろと話が広がりそうです。

 なお、図録はすでに残部少数とのこと。入手されたい方は、お早めに。

 ※終了しました。図録も完売とのことです。
(2010-11-17,12-19追記)
○歴史読本 家臣団特集
 『歴史読本』12月号(家臣団特集)に「武田四天王」を執筆。山県・馬場・内藤・春日が一括されているのは、よく目にするのでさほど違和感はないのですが、「武田四天王」という呼び名が正直耳慣れない。昔からある呼称なんでしょうか?江戸時代の史料をきちんとめくったことがないので、ちょっと良く分かりません。昔の信長の野望では、「武田四名臣」とあったので、個人的にはそちらのほうが印象に残っているんですが、これまた根拠不明です(笑)。なお、香坂虎綱については、高坂昌信でも香坂虎綱でもなく、春日虎綱で通させてもらいました。
 信玄期の領域支配の話を、一般書に書くのははじめてです。新人物の「すべて」シリーズでも、私は基本的に外交担当でしたので。そうしたこともあり、結構オリジナリティのある話を書いたつもりです(これでも結構削っています)。本当は、秋山虎繁くらいはとりあげて「四天王」なる概念を相対化したかったのですが(企画意図に反する?)、やはりスペース不足で断念しました。もっとも、編集後記を眺めると、執筆者との間でいろいろ議論があった様子が漏れ伝わります。これはこれで興味深い、非常によい編集後記ですね。
(2010-11-16)
○武田関係小論3本
 だいぶ前に、下書きだけ書いていて、アップするのを忘れていました。
 先日発刊された『戦国史研究』60号には、武田関係の小論が三本掲載。

 平山論考は、話題の山本菅助新出史料を使った話。信玄自筆書状の年次を確定。いろいろな方向に議論が広がる話です。議論の核となる小山田備中守(虎満・玄怡)は、ここ数年でもっとも実像が明確になった家臣のひとりです。しかし何で『甲陽軍鑑』は、北信濃制圧中に戦死としているのでしょうか。謎です。

 鴨志田論考は、武田信玄の出家時期を、永禄元年12月に引き上げたもの。柴辻氏が以前可能性として指摘していた話ですが、それを史料から裏付け。従来の永禄2年2月説って、単に『甲陽軍鑑』にある天文20年2月出家という記述の、月だけ貰ってきたものですから、結構いい加減だったのです。

 小笠原論考は、相模の寺院に対する信玄の放火・破却を記した史料(仏像の墨書銘2点と、寺の由緒書)から、三増峠合戦後の武田軍の撤退ルートについて論じたもの。従来見過ごされていた史料を活用した成果です。しかしこの墨書銘、両方とも信玄のことを「信幻」と記しています。同じ人の手によるのでしょうか。いろいろ興味深いものがあります。

 ・・・いつの間にか10月も終わり。色々切羽詰まりつつあります。今週末が、山でしょうか(笑)。
(2010-10-30)
○いろんな意味で凶器
 ええと厚さは…6.2センチメートルですか。重さは量ってませんが、間違いなく武器にはなります。もっとも、僕の腕では、正直持ち上げるだけでつらいです。ナイフも防げますが、服の下には仕込めそうにありません。
 というわけで、日本史史料研究会より、阿部猛編『中世政治史の研究』が刊行されました。論文数40本、A5版・1,112頁。それでいて4800円(送料450円)と、デフレ不況下でもびっくりのお値段です。目次載せただけで、長い長い。献本先からは、判で押したように「分厚い本を…」というメールを頂戴。それだけで十分、通じます。
 丸島の論考は、後から2番目。なんと1041頁から。豊臣期の九州という、めずらしい組み合わせで書いてます。豊臣期を書いたこと自体が、はじめてですかね。

◆阿部猛編『中世政治史の研究』日本史史料研究会(2010年9月)

阿部 猛
白河〜後鳥羽院政期の院近臣に関する一考察伊藤 瑠美
院政期における寺領の形成と在地支配―東寺領大山荘を素材として―小野 貴士
中世初期における在庁官人層と仏教苅米 一志
安倍晴明説話の形成―中世王権神話としての晴明・花山院・熊野―渡邊 浩史
公卿昇進を所望した武蔵守について―鎌倉前期幕府政治史における北条時房・足利義氏・大江親広―佐藤 雄基
得宗家嫡の仮名をめぐる小考察―四郎と太郎―森 幸夫
北条時宗・金沢実時期の小侍所―『吾妻鏡』を素材として―池田 瞳
鎌倉幕府家格秩序における足利氏前田 治幸
「最勝園寺殿供養供奉人交名」にみる「大名」鈴木 由美
王朝貴族としての惟康親王―鎌倉期における皇族の処遇について―久保木 圭一
鎌倉幕府の秩序形成における拝賀儀礼の活用と廃絶―鎌倉殿・御家人・御内人と拝賀―桃崎 有一郎
日蓮遺文に見える国主と国王―佐藤弘夫説への異議―坂井 法曄
鎌倉時代の外交と朝幕関係関 周一
鎌倉幕府施行システムの基礎的研究亀田 俊和
鎮西探題の性格規定をめぐって―鎮西探題宛関東発給文書検討の視点から―築地 貴久
陸奥国留守職に関する一考察―鎌倉中期以降を中心に―渡辺 哲也
摂家将軍期における二所詣関口 崇史
明王院五大堂造営に見る北条氏と三浦氏との確執田井 秀
鎌倉後期〜末期の鎌倉陰陽師―『吾妻鏡』以降の鎌倉陰陽師―赤澤 春彦
「北条貞時十三年忌供養」における回向仏事経営の一考察伊藤 一美
都市鎌倉における永福寺の歴史的性格秋山 哲雄
鎌倉・南北朝期在地領主の一族結合と「町場」―越後国小泉荘加納方地頭色部一族を中心に―清水 亮
鎌倉後期の若舎人氏に関する未翻刻史料の紹介と検討―「常陸国行方郡諸家文書」所収の中世文書について― 前川 辰徳
摂津と京極―鎌倉・室町両武家政権支配層の相違点―細川 重男
〓(ショウ、晶+れっか)王考―建武期前後の傍流皇族をめぐって―赤坂 恒明
南朝の綸旨について―後村上天皇綸旨の基礎的考察―三浦 龍昭
中院義定の人名表記について―『阿蘇文書写』を題材に―溝川 晃司
南朝と畿内武士―摂津国渡辺党を事例に―生駒 孝臣
貞和年間の公武徳政構想とその挫折―光厳上皇と足利直義の政治的関係から―田中 奈保
「人返法」の誕生田中 大喜
室町期武家の一族分業―沼田小早川氏を中心に―呉座 勇一
室町期駿河・遠江の政治的位置と荘園制―都鄙間交渉史の視点から―湯浅 治久
室町期における万里小路家の日記・文書類の保管について相川 浩昭
二階堂政行と摂津政親木下 聡
『職原抄』の伝来について遠藤 珠紀
戦国期将軍の大名間和平調停山田 康弘
細川右馬頭尹賢小考岡田 謙一
戦国期山名氏と寺社に関する一考察渡邊 大門
豊臣大名からみた「取次」―相良氏と石田三成の関係を素材として―丸島 和洋
中・近世移行期における在地支配と地方寺院の展開―矢沢綱頼・仙石政勝と長野県上田市所在瀧水寺・清水寺―生駒 哲郎
あとがき生駒 哲郎
(2010-10-08)
○武田勝頼宛て河野通直書状の写
 古文書学会で訪れた松山で、四国中世史研究会の皆様から、下記の史料と論文の存在についてご教示を受けました(改行は適当です)。

 ○河野通直書状写(『南行雑録』一、『愛媛県史 資料編 古代・中世』2185号)
   寔未申通之処、預御懇札本懐候、抑公儀至中国被移御座、
   就被抽輝元忠節、申談不存緩怠候、貴国御手合無油断旨、
   珍重候、猶於向後可申承候、恐々謹言、
     七月廿七日  四郎通直
    謹上
      武田大膳大夫殿
   「右二篇、蔵在高野山上蔵院」

 天正四年に、河野通直が武田勝頼に出した書状の写です。原本は高野山上蔵院にあると注記がありますが(上蔵院は河野氏の菩提所)、現在のところ原本は確認できていません。義昭の備後鞆移座直後のもので、1ヶ月前の6月12日に、義昭御内書(現存せず)、真木島昭光副状、毛利輝元副状、毛利家宿老連署副状が出されています(『戦国遺文武田氏編』4081〜83号)。挨拶が遅れたことを謝罪している点は、当時の状況にぴったり符合します。

 あわせて、上記史料の紹介論文のコピーも頂戴しました。
  ◆山内譲「河野通直と武田勝頼」(『伊予史談』265号、1987年)

 しかしみごとに『戦国遺文』『山梨県史』ともに採録漏れです。こんなに早くに活字化されていたのに…。『南行雑録』は、紀伊周辺の寺社文書を採訪した写伝史料。高野山子院関係史料が、書写されていることでも知られています。『遺文』や『県史』も、成慶院関係は採録しているのですが…。改めて、全体を見直す必要がありそうです。写伝史料のチェックって、既存史料集採録分の確認で満足してしまうことが多く、意外と甘かったりするのです。東京在住の研究者としては、それこそ「緩怠」を責められても仕方ありませんね。

 四国中世史研究会の皆様には、改めて御礼を申し上げます。あと、道後温泉は、やっぱり素晴らしかったです。
(2010-10-04)
○『年報三田中世史研究』17号刊行
 『年報三田中世史研究』17号が刊行されました。毎年のことながら、古文書学会大会あわせです。少数の院生で、しかも処女論文の執筆を指導しつつ、定期刊行を守るという作業がどれだけ大変か。こればっかりは、経験のある人間でないと分かりません。そのうえ古文書学会の大会は、微妙に前後することがあります(去年・今年は早かった…)。そんななかで、『三田中』が一度も大会当日に遅れたことがないというのは、褒められてもよいでしょう。僕とは大違いですネ。
 お問い合わせは、mitachu@hotmail.co.jp に御願いします(@を半角にかえてください)。

◆『年報三田中世史研究』17号(2010年10月)

  鴨川達夫「武田領国の治水関係文書を読む」
  守田逸人「東大寺文書の寺外流出をめぐって」
  井口令菜「穢と視線―中世前期の梟首を素材として―」
  丸島和洋「高野山成慶院『駿河国日牌月牌帳(駿州泉州過去帳)』」

 丸島が紹介させていただいた『駿河国日牌月牌帳(駿州泉州過去帳)』には、駿河国住人(主として武田家臣)だけでなく、和泉国住人が含まれています。後者は、小西氏と日比屋氏が中心。ちょっと気づかれにくいですね。具体的にどのような人物が載っているかは、手にとってごらんください。

 高野山子院供養帳の紹介を行う際には、出来る限り解題を付すようにしています。とりわけ、はじめて供養帳の紹介をする雑誌の場合は、なおさら。そのうえ今回は紙幅に余裕がありましたので、全丁の写真を掲載させていただきました。

 ところが。またしても色が濃すぎ…。正直、現状では肝心要の文字がよく読めません。『武田氏研究』や『信濃』に掲載した写真はまったく問題ないとなると…ちょっといろいろ考えてしまいます。僕の原稿だけでも、2年連続の話でして、正直頭をかかえています。どういえば、印刷所に伝わるんだ…。言い出すとキリがないので、このあたりで止めますが。

 …と、話が感情的になりかけたので、軌道修正。今回の論考の中で、井口氏の原稿は出色です。何より出だしの一文が良い。こういう文章、なかなか書けないんですよね。僕は正直、羨ましいです。え?内容ももちろん興味深いですよ。
(2010-10-01)
○『武田氏年表』裏話2 元亀2年遠江出兵問題
 なんか随分空いてしまいましたが…。ちょっと再整理する機会があったので。

 『武田氏年表』では、丸島の担当分は勝頼期でしたが、年で区切りましたから、元亀4年(天正元年)から執筆しています。ですので、信玄のいわゆる「西上作戦」の途中からスタート。
 その際、問題となったのが、元亀2年の遠江出兵はなかったという新説の扱いです。これは鴨川氏によって提示されたのち、柴氏によって深められたものですが、必ずしも決着した問題ではありません。関連して、信玄発給書状の一部が、実は信玄の死後、「三年秘喪」の期間中に出されたものではないかという指摘(鴨川氏)も、問題となります。

 執筆の際には、かなり悩んだのですが、新説を踏まえて執筆することとしました。年次比定を再検討した結果、明らかに通説の間違いと確認できたことや、色々新たに見えてきたことがあったためです。とはいいつつも、すべてが新説でよいかというと、それも難しいところでして。まあ歴史学というのは、常に作業仮説の蓄積ですから、一度自分なりの考えで並べてみて、それを提示してみようと考えたのが本音です。ですので、自信のある部分と、そうでない部分が混在している面もあります。
 ただ、ちょっと元亀3年までの執筆担当者と、打ち合わせが十分ではなく、新旧の説が交錯している箇所が残ってしまいました。それで、私のほうで年次比定を変更したものを並べてみることにしました。まあ、戦国遺文の番号が連続していなければ、すぐに分かるんですけれど。

 (遺文番号) (元の比定) → (修正後)
  1701    元亀2年 → 天正3年
  1702    元亀2年 → 天正3年
  1703    元亀2年 → 天正3年
  1704    元亀2年 → 天正3年
  1705    元亀2年 → 元亀3年
  1709    元亀2年 → 元亀4年
  1710    元亀2年 → 元亀4年
  1725    元亀2年 → 元亀4年
  1733    元亀2年 → 元亀3年
  1734    元亀2年 → 元亀3年
  1741    元亀2年 → 元亀3年
  1962    元亀3年 → 元亀4年
  1966    元亀3年 → 元亀4年
  4039    元亀元年ヵ → 元亀3年
  4049    元亀元年 → 元亀4年
  4073    天正元年 → 天正3年

 かなり多いですが、1点動かすと、関連文書も動くので、こういう結果になります。あくまで新説を踏まえた私案ですが…。
(2010-09-20)
○山上の気候
 8月31日に高野山より帰京。さすがに5泊6日は堪えました。まだダメージが抜けきれません。

 ただ、山上の気候はさすがに快適。絶好の避暑地です。日中は結構日差しが強かったのですが(これはたしかに例年以上)、日陰に入れば気になりません。夜になると涼しく、朝方は肌寒いくらい。山下とはまったく違う世界です。久しぶりにクーラーを使う必要のない一週間でした。
 その反動は、新今宮で下車した瞬間にやってきます。ただでさえ大阪の暑さは、東京とはひと味違うので…。精進料理の毎日で(昼は違いますが)、やたらと肉ばかり食べたくなるのも反動のひとつ。もっとも高野の精進料理は、宿坊ごとに違うものの、全体的に結構ボリュームがあるので、私には多いくらいなのですが。
 朝の勤行参加は5回中2回。ようは、3日目でダウンしてしまったということです。非常に分かりやすい。決して、般若湯の飲み過ぎが原因ではありません・・・。

 霊宝館の特別展は「ちいさなほとけさま」。胎内像や胎内銘など、興味深いものは多々ありましたが、特に目を引いたのが、初出陳の細字大般若経(金剛峯寺蔵)。虫眼鏡を使わないと、読むことすらできない経典ですが、あっと思ったのは解説文に大意が書かれていた奥書。永禄7年に古河公方足利義氏が鶴岡八幡宮に奉納したものだというのです。奥書部分は展示されず(展示の性格上、当たり前ですね)、図録もなし。この点は、ちょっと残念でした。もっとも、図録にすると「小ささ」がまったく分からなくなってしまうような気もしますが。
(2010-09-02)
○『別冊太陽 戦国大名』刊行
 まだ店頭では見ていないので、ちょっとフライング気味かもしれませんが、今日から恒例の高野登山ですので…。月末までなので、ちと長い。

 平凡社の『別冊太陽』シリーズ最新刊として、黒田基樹監修『戦国大名』がでます。執筆陣は、黒田氏の他に、天野忠幸・木下聡・柴裕之・戸谷穂高・長谷川裕子・村井良介各氏と丸島。
 丸島は、東国を担当。本文として「関東戦国時代の幕開け」「北方の戦国史」「同盟とは何か 甲駿相三国同盟の成立」「川中島の戦い」、トピック&コラムとして「伊勢宗瑞の伊豆経略」「伊達氏の台頭」「越相同盟と佐竹氏・里見氏の台頭」「秀吉に服属した大名の危機感 南部信直の場合」を書かせていただきました。全体の目次をつけようかと思ったんですが・・・分量が多すぎるので、ちょっとパス。
(2010-08-26)
○今年はまずまず
 2回目の参加となる高知での中世料紙復元実験。毎度ながら、実験をしている脇で、楮紙を漉く練習をさせていただきました。一昨年は惨憺たる結果だったのですが…。今年はまずまずの出来映え?でしょうかね。

 2010高知楮紙

 いちおう、紙になっています。
(2010-08-24)
○ばたばたと
 今夜から金曜まで、科研の調査(というか実験)で高知です。といっても別に大河ドラマ絡みではありませんが…。正直、自宅どころか、自室から出ることすらうんざりする暑さなのですが、高知の気温は…う〜ん、東京よりは(心持ち)涼しいのか?微妙です。
 というわけで、週末まで少し連絡がとりづらくなります。急用の方は、携帯まで。いちおう、パソコンメールもチェックできはするんですが。
(2010-08-17)
○横浜市立大調査
 横浜市立大学に、古文書調査に行ってきました。久しぶりの金沢の地です。同大学所蔵文書としては、「安保文書」が著名ですが、実は武田氏発給文書も2点所蔵しています。
 実物を拝見してびっくりした点は2点。ひとつは、裏打のないウブな状態の文書であったこと。紙質調査用の器材をもっていかなかったことが悔やまれます(天気が悪かったこともありますが…)。もうひとつは、『山梨県史』未収録の封紙の存在(県史では史料編纂所の写真帳から翻刻しています)。ただし、別文書の封紙のようですが…。このあたりは、いずれ文章化したいと思っています。あんまり事前に書くのもどうかと思うんですが、まあこれくらいはいいでしょう。

 担当の方にお伺いしたところ、この2点はあまり調査されたことがないそうで。大学所蔵文書というのは、意外に調査漏れが多いというのが実情なのです(大規模な文書群は除く)。私としても、もう一度、紙質を含めて調査にうかがえればなぁと思います。

 ※久しぶりに文献目録も更新しました。情報をご提供くださった皆様、ありがとうございます。
(2010-08-14)
○秋山虎繁のこと
 行方不明になっていたメモが出てきた…というよく分からない理由で、久しぶりに学問的な内容をば。

 秋山伯耆守の実名が、『甲斐国志』にある「信友」ではなく、「虎繁」が正しいことは、黒田基樹氏の論考(「秋山伯耆守虎繁について」『戦国遺文月報』武田氏編第2巻、2002年) によって明らかにされています。その際、黒田氏は天文期に信濃伊那郡で活動する「秋山善右衛門尉」なる人物に着目し、伯耆守虎繁と同一人物と推定しました。
 黒田氏が指摘するように、秋山善右衛門尉は伊那郡支配ばかりか、織田氏との外交も担っています。これらは、秋山虎繁(伯耆守)が後に担当する役割であり、善右衛門尉=伯耆守虎繁という推定は、相当に蓋然性が高いと評価できるものです。このため、その後の研究にも踏襲されていきました。ただ、状況証拠から立論したもので、史料的裏付けを欠いている点に、課題を残したものでもあったわけです。

 そこで今回取り上げたいのは、善右衛門尉=伯耆守虎繁説の傍証となる史料です。あくまで傍証に過ぎませんが、両者の関係を考える上では一助になるでしょう。

 徳川林政史研究所所蔵『古案』第七冊(信長)の冒頭に、「信長公御一代合戦之覚」という史料が書写されています。「徳川林政史研究所所蔵「古案」収録史料細目」(徳川林政史研究所『研究紀要』38号、2004年)には、「織田信長合戦覚写」という名前で目録化されているもので、その名のとおり信長の合戦や攻略した城郭、討ち取った敵将の名を列記した史料です。
 そのなかに、「一、東美濃    秋山善衛門生捕」という記述が、長篠合戦のひとつ前に書かれています。合戦の順序は前後しますが、美濃岩村城陥落と、秋山虎繁の降伏という事実(その後処刑)を記したものとみてよいでしょう。
 この史料の性格は、記主・成立年代ともに不明としかいいようがありません。もっとも、「善衛門」という「右」や「尉」を省く書き方は、江戸期に入ってから広まるものですから、成立年代はある程度くだると思われます。しかしながら、「信長公」という表記からすれば、ある程度織田氏寄りの人物が記したものと考えることは許されるでしょう。
 それが誰にせよ、織田氏寄りの人物が、岩村城で降伏したのは「秋山善衛門」と認識していたという事実が重要なのです。何か記録を作る際に、昔の名前で記してしまうことはよくあります。秋山善右衛門尉にせよ、秋山伯耆守虎繁にせよ、対織田外交を担当しており、使者として信長のもとを来訪したこともありましたから、織田氏にとって馴染みのある人物でした。その織田家で、両者が同一人物と認識されていたとすれば、軽視することはできません。
 成立経緯が不明ではあるものも、織田氏寄りの史料で、秋山虎繁のことを「善衛門」と呼称しているという事実――これは善右衛門尉=伯耆守虎繁説の傍証たりうると考えられるのです。
(2010-08-05)
○「夏休み」突入
 最近の大学は、夏期休暇期間がどんどん短くなっているのですが、先月末より、いちおう「夏休み」に入りました。鉤括弧つきなのは、別に(酒飲んで)遊び暮らしているわけではなく、研究モードに突入するという意味(本来はこっちが本業なわけで)。普段よりもばたばたするのが常です。
 とりあえず、土日を使って、この夏ひとつめの調査(滋賀県)を敢行。何しろ日程が決まったのが木曜でして、かなりご無理をいう形になりました。それと引き替えといいますか、調査成果は予想以上に好感触。調査先でお世話になった皆様への御礼や感謝の意味も籠めて、しっかりとした成果を出していかねばなりません。なかなか手強い宿題ですが、しっかり取りくんでいきたいと思います。

 ただやはり、今年の夏の暑さはかなりこたえます。往復の新幹線は、ほぼ爆睡でした。…誰だ、車内でゲラの校正をすると大見得きったのは?あ、宿ではちゃんとやってましたよ。めずらしく、調査中に一滴も飲んでない。
(2010-08-01)
○『武田氏研究』42号刊行
 『武田氏研究』42号が刊行されました。

神田千里(記念講演)「中世末の「天下」について―戦国末期の政治秩序を考える―」
秋山 敬「塔頭数の変遷からみた一蓮寺」
丸島和洋〔史料紹介〕「高野山成慶院『甲斐国供養帳』(三)―『甲州月牌帳 二印』(その1)―」

 刊行日は6月25日。26日の総会にぎりぎりで間に合いました。誰の責任かは…奥付の編集担当者名をみれば一目瞭然なわけですが。

 『武田氏研究』の総会時刊行号では、前年の総会の講演を文章化していただいています。神田先生の講演録は、戦国末期どころか、江戸時代の状況まで言及した大きな議論となっていますので、是非ご一読ください。

 丸島は高野山の史料紹介の第6段(いつの間にか、すごい数になっている…)。今回紹介した供養帳は、分厚い折本であったため、約半分の翻刻です。年代は慶長2年くらいまでですね。残りは次号以降で紹介したいと思います。
 なお、58頁目下段にうっすらと斜め線が入っている箇所がありますが(18折ウの2筆め)、単なる印刷ミスですので、ご注意ください。どうしてそういうミスが生じたかは、………前段に戻る。
(2010-07-01)
○山本菅助シンポ終了
 山梨県博の山本菅助シンポが終了しました。何と来場者数は約250人だったそうで。この前の戦国史のシンポが約160人くらいだったはずですから、その1.5倍です(戦国史のほうは研究者向けでしたので、同列に並べるのは適当ではないですが)。やっぱり菅助への関心は、非常に高いんだなぁと痛感した次第です。

 展示のほうですが、新出文書と、同時代の武田氏発給文書を比較できる構成になっています。新出文書のうち、一通は信玄自筆とみられるものですので、自筆と明記してある書状と筆跡を比較してみるのも、なかなか味わい深い。信玄って、文字が薄くなってきても、ぎりぎりまで墨継ぎをしないんですよね。祐筆が書いた他の文書と比べると、明らかに雰囲気が違います。
 また、こういう自筆文書の特徴と、必要最低限の内容しか記さない武田氏の発給文書の特徴をあわせ考えると、どんなタイプの人間だったか、何となく浮かんでくるような気がします。生真面目な、締まり屋さんというか。

 今回の新出文書は、純粋に武田氏の新出史料としてみても、従来にない記述を含むものとなっています。また江戸初期の史料は、武田遺臣の再仕官を考えるうえで、非常に貴重なもの。かつて架空の人物とされていた人間の家伝文書が、武田家臣中トップクラスのまとまった文書群として出てきたというのは、何とも不思議な感じがします。武田遺臣の調査は、今後も重ねていかなければなりませんね。
(2010-06-28)
○戦国史シンポ終了
 戦国史研究会シンポジウム「織田権力論―領域支配の視点から―」が終わりました。お忙しい中、お運びいただいた皆様には、この場を借りて厚く御礼申し上げます。また、当日会場設営や進行にご協力いただいた各位にも、御礼申し上げます。会場校となった駒澤大学の院生の皆様には、いろいろとご協力を給わりました。なにしろ若手委員の大半が報告者だったものですから、とても人手が足らなかったのです。どうもありがとうございました。

 お陰様で、最初の報告で会場が一杯になり、シンポジウム開始後に、より広い教室に会場を変更するという盛況ぶりでした。色々異論がある議論であったかとは思いますが、一定の成果を出すことができたと自負しています。もっとも、報告者9人、朝9時から夕方5時45分までというのは、やっぱり長丁場すぎましたね…。

 最後の質疑応答ですが、議論が深まりを見せてきたところで、時間切れを迎えてしまったのはちょっと残念。ほとんどの報告者が30代前半なものですから、ちょっと質疑の応答に手間取った観はあります。っていうか、みんな緊張しすぎだよ(笑)。
 いずれにせよ、頂戴した御意見をもとに、さらに切磋琢磨していこうと思います。どうもありがとうございました。

 以下、あくまで私見です。
 全体を統轄する議論が設けられていないというご批判は、予想していたものでした。「現時点では時期尚早」とお答えしたのは、逃げととられたかな、とちょっと反省。あそこは、「基本的に領域支配権力としての性格は、戦国大名と同じ」と現時点での私見を、正面からお答えすべきだったかもしれません。ただ、あの程度の「部分的」研究成果で、回答を示すのは、時期尚早と考えているのは事実なのです。まだまだ、他の角度からも多面的に検討した上で、結論を出すべきだというのが、私のスタンスだからです。

 織田研究の問題点のひとつは、「領域権力」としての織田氏と、「中央政権」としての織田氏が、分離せずに議論が進められている点にあります。両者は、相互に関連するものではあっても、一度切り離して考えたほうが良いように思うのです。今回のシンポジウムは、その一環でした。
 また、織田氏は、中近世移行期の転換点に位置する中央政権として、必ず触れられる存在でもあります。しかしながら、地道な実証研究が、東国の大名に比して盛んとは言い難い。現状の基礎研究成果をもとに、転換期の「改革性」を論じるという現状は、どうなのかなぁ、というのが実感です。東国大名の研究が基礎研究ばかり大量生産され、大きな議論が少ないという批判を浴びるのと対照的です。

 …という話を、質疑応答でやりたかったのですが、残念なことに時間切れ。個々の概念も、もう少し質疑応答で揉んでいただいて、明確化させたかったのですが…。たぶん、いくつか誤解を招いている概念や表現があるはずです。なので、取り敢えずここで書かせていただきます。ウェブサイト上で記すのは反則かも知れませんが、そのうち何らかの形で文章化しますので、ちょっとフライングということで。

 病み上がりの状態だったこともあり、本当に疲れました。くたくたです。今日はいちにち完全ダウン。今週は、少し体を休めつつ動こうと思います。静養から復帰したはずなのに、何だか変な経過ですね。あ、今度は山本菅助シンポがあるんだった…。
(2010-06-13)
○復帰しました
 今週あたまから、ようやく復帰です。関係各位には、大変な御迷惑をおかけしました。
 ただ、休んでいたツケが一気に回ってきて、予想外に慌ただしい一週間です。なまっていた体には、正直きつい。土曜日のシンポまでは、何とか一気にやりきらないといけないんですが。…持つかなぁ。レジュメ印刷が前日だから、木曜の夜(あ、今夜だ)が山ですね。
(2010-06-10)
○山本菅助展とシンポジウムのお知らせ
 先週末から、山梨県立博物館でシンボル展「実在した山本菅助」が始まりました。会期は、6月5日(土)〜7月5日(月)の1ヶ月。昨年発見され、新聞等でもニュースになった山本菅助宛ての新出文書を中心とした展示です。報道された以外にも新出の文書があり(ここ強調)、かなりのボリュームとなっています。ちょっとびっくり。

 展示に合わせて、シンポジウムが開かれます。

◆シンポジウム 「山本菅助再考」

 日時: 平成22年6月27日(日) 13:00〜16:30
 場所: 山梨県総合教育センター(県立博物館の隣り)
 主催: 山梨県立博物館・武田氏研究会・山梨郷土研究会
     ※参加費、事前申し込みは無料です。

【内容】
12:00〜受付開始
13:00あいさつ
13:05〜13:35「真下家所蔵文書の伝来と山本氏の系譜」海老沼真治(山梨県立博物館)
13:35〜14:05「武田家臣山本菅助とその子息」丸島和洋(慶應義塾大学文学部講師)
14:05〜14:35「徳川家康に仕えた山本氏」柴裕之(東洋大学文学部講師)
14:35〜14:40休 憩
14:40〜15:25「山本菅助一族とその時代―乱世から太平の世へ―」平山優(山梨県立博物館)
15:25〜15:35休 憩・討論準備
15:35〜16:30討 論司会:黒田基樹(駿河台大学准教授)

 丸島も報告予定…というかずばり菅助本人を担当ですね。かつて実在すら疑われた山本菅助(山本勘助)ですが、今回相次いで発見された文書により、あるていど実像が分かるようになってきました。何だか隔世の感があります。さらっと書いてはいますが、実物を拝見したときは、正直驚きました。当日のシンポでは、菅助だけではなく、その後の山本家がどのような軌跡を辿ったのかまで含めて、報告がなされる予定です。どちらかというと、こちらのほうが興味をひくんじゃないかと思います。

 前日の武田氏研究会総会(山田邦明氏講演)と合わせてお運びいただければ、幸いです。なお、詳細は山梨県立博物館にお問い合わせください。
(2010-06-09)
○名著復刊
 入手困難になっていた、名著2冊が復刊されました。

  磯貝正義『中世武士選書1 武田信重』(底本は1974年刊行)
  河村昭一『中世武士選書2 安芸武田氏』(底本は1984年刊行、改訂版)

 いずれも戎光祥出版からの刊行。2,200円税別というリーズナブルなお値段です。
 同社からは、他にも黒田基樹編『中世関東武士の研究第一巻 長尾景春』、『近江国古文書志第1巻 東浅井郡編』(『東浅井郡志』〈1927年〉から第四巻「古文書志」を復刊)など中世史関係書が次々刊行されています。歴史関係者にとっては、見逃せない出版社となりそうです。
(2010-06-07)
○2010年度武田氏研究会総会のお知らせ
◆第24回武田氏研究会総会

 日時: 平成22年6月26日(土)
   総会       午後1時〜1時50分
   記念講演    午後2時〜3時50分
     山田邦明氏 「三河・遠江から見た武田氏」

 場所: 帝京大学山梨文化財研究所 講義室
(2010-06-05)
○御迷惑をおかけします
 健康ネタは、書かないつもりだったんですが。
 日頃の不摂生が祟ったようで、ちょっと自宅で静養中です。関係各位には、様々な御迷惑をおかけいたします段、心よりお詫び申し上げます。何とか来週中には復帰したいのですが…。

 ええと、どちらかというと、以下が本題。
 先日、手が滑って携帯を「水たまり」に落とすという間抜けなことをやりまして(いつの話かバレバレだ…)、かなり動作が怪しいです。気がつかないうちに、電源が切れていたりするといいますか。もし携帯にかけても応答がないようでしたら、パソコンメールのほうにご連絡ください。折り返し、こちらから連絡させていただきます。


 というわけでして、連絡が突然つかなくなったとしても、決して締切を前にした逃亡ではありません…。って書くと、なんだか偉そうですね。
(2010-05-28)
○戦国史研究会シンポジウム その2
 戦国史研究会シンポジウム「織田権力論―領域支配の視点から―」の公式サイトが公開されました(シンポ用の仮設サイト)。

  http://sengokushisympo.web.fc2.com/

 概要なども記されていますので、詳細はこちらを御覧ください。
(2010-05-09)
○戦国史研究会シンポジウム
 案内状が発送されたので、もう公開してもいいですかね。

 ◆戦国史研究会シンポジウム  「織田権力論―領域支配の視点から―」

 日時: 平成22年6月12日(土) 9時〜17時半
 場所: 駒澤大学 1号館 1−202教場

 プログラム
  09:05〜09:20  趣旨説明
  09:20〜10:00  第1報告 「織田権力の京都支配」  木下 昌規
  10:00〜10:25  第2報告 「織田権力の摂津支配」  下川 雅弘
  10:25〜10:50  第3報告 「織田権力の和泉支配」  平井 上総
  10:50〜11:00   (休 憩)
  11:00〜11:30  第4報告 「織田権力と織田信忠」  木下  聡
  11:30〜12:00  第5報告 「織田権力と北畠信雄」  小川  雄
  12:00〜13:00   (休 憩)
  13:00〜13:40  第6報告 「織田権力の北陸支配」  丸島 和洋
  13:40〜14:20  第7報告 「明智光秀の領国支配」  鈴木 将典
  14:20〜14:30   (休 憩)
  14:30〜15:10  第8報告 「羽柴秀吉の領国支配」  柴  裕之
  15:10〜15:50  第9報告 「織田権力の取次」    戸谷 穂高
  15:50〜16:00   (休 憩)
  16:00〜17:30  全体討論


 (※以下、あくまで丸島の個人的発言です)。

 テーマは織田氏。意外に思われる向きも多いかもしれませんが、戦国史研究会としては正面から取り上げたことがない研究対象です。ずばり、設定した視点は、家臣団と領域支配の関係。織田信長ではありません。敢えて「織田政権」という用語を使わず、「織田権力」としたことにも、意味を籠めています。中央政権としての織田氏ではなく、戦国期の地域権力としての織田氏を見つめ直してみたいと思うのです。

 昨日・一昨日と、丸二日かけて準備報告会を終えました。正直くたくたですが、そろそろ形になってきた感じがします。当日は、早朝から夕方までの長時間となりますが、どなたの報告も全力投球であることは間違いありません。私の担当は柴田勝家。ただ、もう少し対象が広いので、「北陸支配」とさせていただきました。「柴田勝家の…」としたほうが、鈴木・柴両氏と揃って奇麗だったんですけどね。
 さて、残り1ヶ月。準備報告会で洗い出された問題点を、さらに詰めていかねば…。

(2010-05-03)
○自縄自縛というか自業自得というか
 知人のサイトをみると、どこをみても「忙しい…」云々という言葉が並んでます。私も御同様でして、テンパって何から手を付けたらよいのか訳がわからん状況です。…というのは言い過ぎなのでしょうが、何をもって忙しいと感じるかは本人の器用さとキャパ次第。取り敢えず、現状は自分のキャパを超えつつあるような気がします。

 そうやって追い詰められると、何故か部屋なり書類なりの「片付け」に走る癖が抜けません。今日も最初に行ったことは、ファイル関係を買いに文房具屋に走ることでした。現実逃避と飾りたいところなのですが、真実はいつだって極めて単純。

 …片付けないと、整理しないと、必要な書類が出てこないから。
 この一事だけで、私の要領がいかに悪いか、分かろうというものです。職業柄、論文や史料のコピーなど、書類や書籍ばかり溜まるわけですが、良く使うものほど出しっぱなしとなる事態に陥りがちなのです。結局のところ、対処方法は、良く使う物は他に紛れないように大きなファイルに綴じて、なるたけそのファイルごと移動させること。これに尽きます。問題は、もっと早くからファイリングしとけということと、でかくすればするほど収納に困って棚に収めず放置という悪循環を生み出しやすいことなんですが…。
(2010-04-29)
○記憶媒体の世代交代
 ついに来る時が来た、という感じです。往年の「副記憶装置」(死語?)の代表格、フロッピーディスクの消滅が秒読みとなりました。現行の最大手メーカー・ソニーが撤退を表明し、イメーションも追随するとのこと。
 思い起こせば、はじめて5インチフロッピーディスクに触れたのが中学生の頃。3.5インチ移行後によく購入していたマクセルや花王は既に撤退していましたが(花王のラベルは粘着力が強すぎて往生しました…)、ソニー撤退というのでは、心理的にもトドメという感じがします。最後に50枚入りを箱買いしたのはいつだったでしょうか。昔はどの収納ケースが便利か、頭を悩ませたものですが。

 問題は、学界を含む分筆業の世界では、まだまだフロッピーは健在であるということ。作家さんなんかが、使い慣れたワープロ専用機から乗り換えることができず、生産終了を聞いて在庫を買いに走ったなんて話はよく見かけます。ただ、肝心のフロッピーが消滅するようではいかんともし難い。
 文系の研究者の世界でも、論文の投稿などは未だに打ち出し原稿にフロッピー添付が主流です(少なくとも、日本史では)。メールで送信することは増えてきましたが、ある程度親しいことが条件ですし、図表の指示等で打ち出し原稿を添付することが多い以上、二度手間になるという事情もあります(スキャンしてPDF化、というのはあまり文系では流行らないような)。フロッピーの単価が上がってしまったので、CD-Rを使った方が安いのは間違いないんですが、やっぱりフロッピーのほうがお手軽なのは間違い無いですし、意外と心理的障壁が大きい。フロッピーに収まる程度のデータを、CD-Rに入れることへの「大仰さ」「馬鹿馬鹿しさ」は否めないところです。また、フロッピーなら返送してもらってフォーマット・再利用ができるのに対し、CD-Rだと事実上捨てるしかなくなるというのも何とも釈然としません。編集に携わっている身としては、ちょっと今後の対応を考えてしまいます。

 まあ、時代の趨勢と言うことで諦めるしかないんですが…。今まで消えていった記録媒体の量を考えると、よく持ったというべきなんでしょうか。日本独自で普及したMOはともかく、誰かJAZZディスクやZIPディスクを現役で使っている人って、いますかね。あ、フロッピーの上位規格でスーパーディスクなんてのもありましたね。現物触ったことすらないけど。どれがフロッピーディスクの後継か?なんて雑誌特集やってた頃が懐かしい。…結局事実上の使い捨てメディアであるCD系が生き残るとは、何とも皮肉な話です。

 以上、懐古主義者のお話しでした。
(2010-04-25)
○検地研究の最前線
 鈴木将典氏より受贈した「豊臣政権下の信濃検地と石高制」(『信濃』62巻3号)。平山優氏「戦国期東海地方における貫高制の形成過程(上・下)―今川・武田・徳川氏を事例として―」 (『武田氏研究』37・38号) とあわせ、戦国・豊臣期検地論における必読論文。検地の実態と、度量衡の「統一」の意味をどう捉えるか。政権側の公文書に記される数値と、各地域の歴史に基づく実態の擦り合わせがどうなされたかを教えてくれる好論です。掲載誌が全国誌でないのが残念。どうしても、知名度・影響力の点で劣ってしまうんですよね。

 検地にせよ、それに付随する度量衡(単位)の統一の問題にせよ、書類上の表記の統一と、現地における実際の運用を同一視する発想が、根強いことが問題なわけです。「強大な権力による統一の推進」というのはある種の「幻想」を孕んでいるわけで、政策志向と実務の間には、ズレが生じるのが当然。太閤検地にしばしば見られる「机上の数値操作」という実態は、かつての「太閤検地論争」当時から指摘され続けてきたことですが、未だに共通理解とはほど遠い状況です。この背景として、戦国大名と豊臣政権の政策の間には大きな差異があるはずだという前提と、秀吉個人に対する過度の評価が存在するように思えてなりません。あ、これ以上は書きすぎですかね。
 だいたい、豊臣政権があんな短期間で全国的な測量を完遂し、あまつさえ「収穫高」を把握するなど、物理的に不可能だと思うんですよ。現代日本における公示価格(公示地価)ですら、サンプル調査をもとに決められているわけですし。…なんて書いたら怒られちゃいますかねぇ?あ、やっぱり書きすぎだ。でも実名サイトなんですから、本人責任です。
(2010-04-09)
○桃崎氏著書受贈
 畏友・桃崎有一郎氏より御高著『中世京都の空間構造と礼節体系』(思文閣出版)をご恵贈いただきました。高著という表現ではまだ足りないくらいの仕上がりです。しかも580ページという分厚さでありながら、半分以上が新稿。読了してから礼状を書こうとすると、書く前に本人に会っちゃうんじゃないかという重厚さです。内容的にも、中世政治史を考える上で必読の書といっても過言ではないでしょう。氏の論考を読んだことがある人ならお分かりいただけるかと思いますが、書名から想像される以上に幅広い議論を含んでいます。
 そもそも本書に収録されているのは、桃崎氏の既発表成果からすれば半分にも満たない。テーマを絞って、厳選されたものです。氏の研究の本筋は「室町殿」論にあるわけですが、本書はその入り口にあたるわけで…。流石としかいいようがありません。

 こういう成果を見ると、心から奮起を促されます。まだ大学が始まるまでしばらく時間があるわけですし、集中せねば。
(2010-03-30)
○『戦国遺文今川氏編』刊行開始
 先週は合宿で長崎へ。もう11年も前になりますが、私のファースト論文の地・西彼杵半島です。実はきちんと回るのは、初めてだったり。このあたりの土地は、海岸線に点在する浦々における「海の生業」に眼が向きがちでしたが、山がちな内陸部における「山の生業」が併存していることがよく分かりました。半島部のような地形における山と海の生活は、切り離して考えることはできないというのが巡見で得た実感です。
 ただ、帰ってから体調をくずし、週末はダウンです。ちょっと情けないような。

 さて、東京堂出版より、『戦国遺文今川氏編』の刊行が開始されました。全三巻を予定しているとのことです。発給文書は1,200通弱ということなのに(第一巻「序」より)、予定収録文書数は約2,300点とのこと(広告による)。これは、発給・受給文書や金石文を合わせて並べているだけでなく、文書中で今川氏の動向が明らかとなる「関係文書」も含んでいるため。ですので、後北条・武田遺文とは少し収録文書の考え方が違います。これとは別に、収録文書の関係文書を「参考文書」として採録しているので、この点は少しややこしい。関係文書・参考文書のなかには、採録理由を併記しているものも多いのですが、すべて書かれているわけではありません。この点は、ちょっと注意が必要かも。採録されているからといって、発給者が今川の家臣や従属国衆であるとは限りません。たとえば遠江の斯波氏関係文書や、河東一乱時の北条方の発給文書も、一部を採録しているようです(編者に確認はしていませんが)。

 今川氏に関しては、『静岡県史』『静岡県史料』があったのですが、両書は家臣・陪臣の発給文書の採録が紙幅の都合で十分ではない上、その後の新発見文書も増えました。今川遺文の第一巻の採録年代は、寛正2年(1461)から天文15年(1546)まで。後北条・武田遺文の第一巻が永禄中期に到達しているのに対し、天文中期で終わっています。これは起点となる年代が早いだけでなく、関係文書も採録したためでしょう。

 なお、こうした編年文書集が出る度に、無年号文書の年次比定の誤りが話題にのぼります。しかし、年次比定の誤りはあって当然のもの。史料集が刊行された結果、明らかになることが多いのです。なお、年次比定の訂正が起こる場合、一点に留まらず、十点単位の年次比定変更が起こります。戦国期の文書は書状形式のものが多く、無年号のものが大半を占めます。ある文書を起点に、「この文書はこの一年前」といった形で年次比定をしていくため、玉突き式に文書の年次比定が修正されるというからくりです。さらにいえば、他大名の動向を勘案するとこの年ではおかしい、という議論が出て来るわけで…。大名の枠を超えて発給文書の編年検討を行う必要性は、非常に高いといえます。
 今川遺文刊行により、後北条・武田・今川三氏および古河公方は『戦国遺文』で編年の比較検討が出来るようになりました(古河公方編は、残念ながら家臣の文書まで採っていませんが)。『上越市史別編 上杉氏文書集』や佐藤博信・滝川恒昭編「房総里見氏文書集」(千葉大学『人文研究』37号)などとあわせ、東国戦国史は通覧検討が非常に楽になったわけです。今後の基礎研究の進展に、期待。
(2010-03-21)
○『武田氏年表』裏話1 小山田信茂の命日はいつ?
 2〜3月というのは、どうもばたばたしていけません。ようやくちょっと一息ついたところなんですが…。

 さて、そのうち書こうと思っていた『武田氏年表』の執筆裏話です。今回は、武田氏滅亡前後の重臣処刑日の話。

 勝頼主従の自刃(あるいは戦死)が、3月11日であることは確定しています。ただ、その他の重臣がいつ処刑あるいは自害したかは意外と分からないのです。
 『信長公記』をみると3月7日に信忠が甲府入りして一条信龍屋敷を接収、「武田四郎勝頼一門・親類・家老の者、尋ね捜して悉く御成敗」(※角川文庫版ですので、底本は陽明文庫本で、読み下しに改められています。以下同じ)とあります。『信長公記』の書き方では、甲府入り(7日)と一門・重臣処刑が同日であるかのようにも読めますが、同史料の場合、時系列には多少揺らぎがありえます。同日かどうかの確証は得られませんし、そもそも一日の出来事ではないかもしれません。というわけで『年表』では、7日頃、という曖昧な書き方になりました。

 一番頭を悩ませたのが、小山田信茂です。『信長公記』では、同時に処刑されたメンバーに「小山田出羽守」とあり、信茂が武田信廉(逍遥軒信綱)・一条信龍等と同時に処刑されたように読めます。さらに同書に引用されている柴田勝家他宛て3月13日付け信長書状では、「武田四郎勝頼・武田太郎信勝・武田典厩・小山田・長坂釣竿初めとして、家老の者共悉く討ち果し」とあり、これ以前に処刑されたことになっています。これが正しければ、小山田信茂は離反直後に甲府に出頭し、他の重臣とともに処刑されたことになるわけです。ただ、関連した話をまとめて記載した可能性もあり、同時に処刑されたかどうかの確証は持てません。これは先述の通り。
 問題は、この勝家宛信長書状写。ちょっと当時の書状としては、文章の書き方にやや違和感があるのです。もっとも、「信長公返書之趣」とあり、大意を記したと考えれば、問題ないのですが。
 一方で、比較的信頼性の高い軍記『甲乱記』によれば、信茂父子の処刑は24日。かなりのズレが見出せます。

 前者の難点は、勝頼滅亡以前に、路次を封鎖しただけで甲府に出頭したという信茂の行動への疑問。もっとも忠節を示すために直ちに馳せ参じたと考えれば、問題は無し。ただ、肝心の信長書状に多少の違和感。
 後者の難点は、総体的な史料性からすれば、『甲乱記』のほうが『信長公記』よりも劣るという問題がひとつ。そして他の重臣が次々と処刑されているなかに、のこのこ甲府に出ていくのか?という疑問。ただし、一門・重臣の処刑日が、明確ではないのは前述の通りですし、人間が必ずしも合理的な行動をとるとは限らないという命題があります。信茂自身は赦免されると期待していたわけですから。

 というわけで、どうしようか大変迷ったんですが、『年表』では後者を採用し、「二十四日頃・・・という」と曖昧な表現を選択しました。ぎりぎりまで悩んだ結果ですが、正直自信はないです。執筆時に、勝家宛書状への疑問が頭を離れなかったというのが本当の理由。ただ、前述したように留保つきの疑問です。
 なお武田氏滅亡時の織田勢の動きは、概ね『信長公記』をベースにしましたが、一次史料と付き合わせると、実は齟齬がでます。齟齬が大きい箇所は、出来る限り外したのですが…。このあたりは紙幅(および時間)との戦いだったので、書ききれなかったというところもあります。事実の確定というのは、単純なようでいて、一番難しい。

【追記】
 「『甲乱記』によれば、信茂父子の処刑は24日」としたのは、信茂の死が「勝頼生害以後、十三日と申すに…被指殺」「纔ニ、十三日生延ンとて…」とあることから。勝頼の死が3月11日なので、その日の13日後としたわけです。説明不足でしたので、追記。というより、自分でもどう考えたか忘れてました。ただ、よく考えたら11日を起点に13日を数えたほうが良いような。だとすると23日没となるのですが…。あれ、この点でも間違えたかな。
(2010-03-12,03-21追記)
○『アーカイブズ情報の共有化に向けて』刊行
 国文学研究資料館編『アーカイブズ情報の共有化に向けて』(岩田書院)が刊行されました。丸島も、第10章として「EAD/XMLのウェブ上での表示とXSL―国文学研究資料館の事例から―」を書かせていただいているのですが…、果たしてどれだけの方に読んで頂けるか。正直不安でなりません。これは別にこの本が売れなさそうとかいうわけではなく、私個人の論文の特殊性によります。文系の方には「コンピュータの話ばかりで意味不明」だろうし、理系の方には「何あたりまえのこと書いてるの?常識でしょ?」と成りかねないからです。私自身は完全に文系人間なので、かなり分かりやすく書いたつもりなんですが…、読者層とのミスマッチは認めざるを得ません。なお、私が自分を文系人間というのは、コンピュータ関連の知識を、理屈ではなく経験則の積み重ねで理解していることによります。これは理系人間では、ありえないことなのです。
 となんだか訳の分からない話になってしまいましたが、いちおう、今年の第一論文です。「何でも屋」の面目躍如といったところでしょうか(褒めてない)。ま、高校時代からの趣味やら資格やらが、仕事の役にたっているといえば、救いようがあるわけですが…。あれ、後ろ向きすぎるよ。

 ええと、じゃあ訂正。パソコンのプログラムを一度でも書いた事のある人なら、間違い無く理解できます。Basic程度でも、可。だいたい丸島は、C++のポインタの所で一度挫折した人間です(もうこの段階で意味不明ですよね)。パソコンに興味ない方は、意味不明の箇所をすべて読み飛ばして頂ければ、言いたいことは理解できる…ようにがんばりました。あれでもかなり分かりやすく書いたつもりなんだけど、超えられない溝はあるんだろうなぁ…。駄目な人には、絶対だし。XMLって、コンピュータの世界でも、一大変革ですしねぇ。むしろ註釈のほうを見て貰うと、最近何が起きているか、分かるかもしれません。パソコンの普及は、素人でも使える=ブラックボックス化によって果たされたわけですが、実は現在起きているのは、知らないと酷い目に会う(かもしれない)という状況なのですよ。かもしれない、というところがミソなわけですが。
 …また論文の主旨からずれました。プログラムがどうこうではなく、いままでと違った角度からEAD活用の意義を書いたのが本稿です。書くの遅いよ。っていうか、絶対EADって何?って聞かれるような。そちらは同書所収の五島論文を読んでください…だとまずいので、気が向いたら補足します。

 なお、このウェブサイトは、同論文執筆に関わる仕事で得た知見を踏まえて作ってます。XMLって、慣れるとほんとに便なんですよ。企業や官公庁も移行しつつあることくらい、大学関係者も知っておいても損はないと思うんだけど。…ってどこまで上から目線なんですか、今日の話は。
(2010-03-04)
○中世古文書講座終了
 日曜に、神奈川県立公文書館で中世文書の古文書講座をやらせていただきました。2時間半の長丁場でしたが、毎度のことながら時間配分に失敗。鎌倉〜南北朝期に力を入れてしまい、専門であるはずの戦国を、駆け足でやるといういつものパターンに陥ってしまいました。個人的には、中世文書の本命は鎌倉・南北朝だと思っていますので、さほど問題とは思っていないんですが、熱心に配付写真を読んで来られた方には、申し訳がないことは言うまでもありません(釈文や読み下し文は配付してありますが…)。
 しかし前置きが長すぎたり、すぐ脱線して余談に流れる癖はなかなか直らず(苦笑)。自分の癖が分かっているんですから、それを改善する努力をもっとしなくてはなりません。反省することしきりです。
 貴重な機会を与えてくださった、公文書館の皆様には、この場を借りて御礼申し上げます。
(2010-02-16)
○『武田氏年表』刊行
 ついに『武田氏年表』が刊行です。サブタイトルは、「信虎・信玄・勝頼」となっていますが、『勝山記』延徳4年6月11日条「甲州乱国ニ成リ始テ候也」から起筆ですので、信昌・信縄の抗争からスタート。最後は天正10年4月25日、武田氏滅亡に荷担した穴山信君(梅雪)が、母親の年忌法要で自分の行動の正当性をアピールするところまでとなります。個人的には、穴山武田氏の時代まで書きたかったんですが、流石に無理でした。

◆武田氏研究会編『武田氏年表 信虎・信玄・勝頼』(高志書院、A5判カバー装、2500円税別)

(本文 執筆分担)
 延徳4年(1492)〜天文18年(1549)  秋山敬
 天文19年(1550)〜永禄8年(1565)  平山優
 永禄9年(1566)〜元亀3年(1572)  鈴木将典
 元亀4年(1573)〜天正10年(1582)  丸島和洋

 コラム1 秋山正典 「守護の時代」
 コラム2 畑大介  「五輪塔か、宝篋印塔か、それとも」
 コラム3 数野雅彦 「武田氏の本拠」
 コラム4 海老沼真治「和漢聯句と甲州法度之次第」
 コラム5 鈴木麻里子「信玄と武田不動尊像」
 コラム6 小川雄  「武田氏海賊衆の形成と動向」
 コラム7 柴裕之  「長篠合戦の政治背景」
 コラム8 丸島和洋 「武田氏と高野山子院」(付:供養帳・過去帳による没年月日一覧)

 武田氏略系図
 主要遺跡分布図

 丸島は、勝頼期の10年間を担当させていただきました。ただ、年で分担を区切っていますので、元亀四年正月の信玄最晩年からの執筆となります。ということは、信虎・信玄・勝頼三代の死亡記事を書いたわけです。何だか暗いなぁ…。

 自分でいうのもなんですが、結構チカラ入ってます。高志書院さんの御理解を得て、最終校正ギリギリまで粘らせて頂きました(赤字校正が最後まで消えないのはいつもの事だろ?、という突っ込みは却下)。史料を読み直すたびに、思い込みに基づく誤読や、史料の読み込みの甘さに気付かされ、なかなか文章が確定しなかったのです。通説とは異なる見解を書いている部分もありますし、現在論争中の議論を扱った箇所もあります。いくつか重要な部分は、いずれこのサイトでも言及していきたいと思います。

 今回は、特に軍事・外交に関しては、かなり細かい動きまでフォローしたつもりです。ただそれでも紙幅の都合上、個々の合戦の詳細までは踏み込めませんでした。あくまで「年表」ですから、全体的な流れのほうを優先させたわけです。勝頼期は書くべき内容が膨大すぎて、個々の事象の背景説明など、少し踏み込みが足らない部分があるかもしれません。
 なお天正10年は、「ドキュメント・武田家滅亡」と秘かに名付けて書いており、ほとんど一日刻みで進行。これでもかなり記述を削ったつもりなんですが…。たとえば勝頼の朝敵認定なんかは、実質的に京都政界内部の動きにとどまっており、武田・織田両軍にはまったく影響を与えなかった話ですから、割愛しています。それでも、他の年に比べるとやはり多いです。
 どの部分も、かなり細かい地名が出ていますので、巻末地図を参照しながら読み進めていただけると幸いです。おそらく、数ある武田氏関連本でも、もっとも詳細な地図であるといっていいと思います。配置の都合上、越後と美濃がほとんど入らなかったのは残念ですが、武田領中心なのでこれはやむを得ないところ。それでも可能な限り、地名を入れさせていただきました。

 コラムでは、私が継続調査している高野山子院の供養帳から、武田氏の一門・重臣の命日をピックアップし、リスト化させていただきました。現時点で、未翻刻・未紹介の供養帳も複数用いています。いずれ紹介したいと思っていますが、とてもすぐにはできないので、取り敢えず主要人物のみを一覧化したという次第です。系図類などでも確認できない知見が含まれているはずですので、ご確認ください。
 その他のコラムも、力作揃いです。校正中は、他の方の分まで見る機会がありませんでしたので、現物を見て正直びっくりしました。

 なお、本書は編者として武田氏研究会の名前を冠させていただいていますが、あくまで各部分の内容は、執筆者各人が改めて史料を読み直した結果、辿り着いた見解です。間違いも当然あるでしょうし、また研究会内でも議論が分かれている点も多く存在します。
 どの学会・研究会でもそうですが、学会全体の共通合意事項というのは、(学会に参加する理念や論証手続きなどを除けば)基本的に存在しませんし、存在すべきものでもありません。それは、学問の進展を阻害するものであるからです。ですので本書の内容は、武田氏研究会全体の公式見解というわけではありません。その点だけは、誤解のなきよう、御願い申し上げます。

【追記】
※年表という書名ですが、単なる表ではありません。「戦国大名武田氏の通史」を書いた本とでも言えばいいのでしょうか。
(2010-02-09,02-16追記)
○新潟県博調査
 先月末は、新潟県立歴史博物館で科研の調査。古文書を顕微鏡で覗いたりして、紙質を検討するというものです。だんだん、楮や雁皮の繊維の太さや、紙を白く見せるための添加物(米粉や白土)の感じがつかめるようになってきた…積もりだったんですが、見れば見る程分からなくなることだらけ。まだまだ経験不足のようです。ただ、今まで純粋な斐紙だと思っていたものが、実は楮と雁皮の混合紙(斐紙っぽく見せた紙)だったりと、今回も貴重な経験を積ませていただきました。このことを考える上での最大の問題は、たとえば「斐紙っぽいけど違う紙」が、同時代人にどう認識されていたかなのですが、一筋縄ではいきません。

 新潟県博では企画展「発掘が語る新潟の歴史2009」が開催中(3月23日まで、入場料は無料)。名越北条氏のそれに似た家紋が掘られた出土遺物などを拝見(私には、考古遺物を見る目などありませんが…)。

 帰りがけに、県博所蔵「直江状」(写)のカラー写真を購入(1,500円)。長いので、巻紙状になっています。この写、文字の雰囲気などが十七世紀前半の印象を受けるもの。直江状について考える上では、欠かせない史料だと思います。かつては文言がおかしいと言われていましたが、最近再検討がなされつつあるように、当時のものと考えてもさほど違和感は無いんですよね…。

(2010-02-07)
○福岡調査
 月曜の夜に福岡空港につき、水曜まで滞在。今回は完全な個人調査です。主目的は九州大の記録資料館九州文化史資料部門。九州文化史研究所といったほうがなじみ深いですね。そちらの閲覧予約は水曜にとっていたので、火曜はフリー。九州国立博物館にまだ行ったことが無かったので、ひさびさに太宰府へ。

 しかし太宰府天満から九博に直結する、動く歩道つきの回廊(虹のトンネルと言うらしい…「天神様の細道」とも書いてあった気がしましたが)は、どうなんでしょうか。ウェブで検索する限り、評判は良いようですが、個人的にはちょっとやり過ぎの気もしました。九博のある場所は、迂回して行くには結構遠いので、楽なのは間違い無いのですが…。
 九博では、「妙心寺展」を東京で行きそびれていたので参観。平常展示(常設展)も合わせてみたら予想外に時間がかかってしまいました。平常展示のほうは、なかにトピック展示が混ざっているせいもあり(だから常設展という名称ではないのかな?)、展示の意図がちょっと読み取りづらい。展示を通じて企画意図を「伝える」よりは、多様な文化に触れて参観者それぞれの興味で「感じ取ってもらう」ことに重きをおいたコンセプトなのでしょう。もっとも、九州のもつ「マージナル性」を強調したものであることは確かです(これは「妙心寺展」の九博オリジナル部分も同様ですが)。順路はあっても自由に移動できる構造といい、体験展示部分が存在する点といい、最近の博物館展示の流行に沿ったものといえます。ただ、順路通りに動く気がまるでない人間がいうのもなんですが、ストーリー性を意図的に排除し、参観者が自由に見られるように工夫した展示というのは、なかなか慣れません。単に相性の問題ではあるんですが、頭を切り替えられていないということなんでしょうか。
 展示品そのものは、いろいろと興味を引かれたのですが(だから時間がかかったわけで)、一番衝撃を受けたのが、復元品などの展示パネルに「昭和時代」という言葉が頻出していたことだったのは内緒。まあ平成も既に22年。江戸時代で一番長い元号であった寛永・享保を超えたわけで、展示を見に来る学生にとっては、まさに生まれる前の「時代」のわけですが。
 その後太宰府展示館を経由して、太宰府天満宮参拝。…順序が完全に逆ですね。帰りながら気がついたのですが、今年の初詣です。一月中に済ませたのは、自分としては非常に珍しい。

 九州文化史では、事前の申請手続きに不備があったにも関わらず、丁寧に応対をしていただきました。実はいちばん拝見したかった史料は、ある理由で閲覧出来なかったのですが(非常に残念…)、それでもいろいろ興味深い知見を得ることができました。ただ、調査成果を形にするのには、いろいろ追加調査が必要な予感。

 明日(土曜)からは、新潟県博の調査。木・金と休みが取れなかったこともあり、ちょっとばかり強行軍(昔は平気だったんですけれど…)。やはり前泊で行けたほうが、気が楽ですね。
(2010-01-29)
○史料調査の集中
 先週は江戸東京博物館に中世文書を調査に伺いました。先方のご厚意もあり、非常に興味深い史料を拝見させていただきました。まさか小田原合戦前後の上野小幡氏の動向が分かる史料があろうとは・・・。正直、江戸博というのは、中世史研究者にとって穴という感じがします。展示や図録で、収蔵史料を紹介されているそうなのですが、なかなか気がつきません。
 その後、企画展「旗本がみた忠臣蔵―若狭野浅野家三千石の軌跡―」を見学(展示は2月7日まで)。綸旨や絵図類があれだけ並んでいると、非常に壮観です。慶長期の綸旨はちゃんとした宿紙なんですが、寛永期に入るともう宿紙風に染めた料紙に変わっているんですね。それと、興味深かったのが織田信武自害時の検死図(図録には掲載されず…残念)。やっぱり自殺する時に腹なんて切るわけがないということが、よく分かります。
 ご多忙の折り、調査や展示案内に快く応じてくださった皆様には、心より御礼を申し上げます。

 今週も、月曜から九州、週末には新潟と調査が立て込んでいます。ばらばらに日程が決まってきたので、直前まであまり気にしていなかったんですが、どうみても過密スケジュール。体調が持つか、どうか…。

 ※企画展は終了しました。
(2010-01-25,02-07追記)
○久々に
 久々に小中学校の頃の友人と飲み。二次会で校歌の話が出たのですが、小学校の校歌は自然に出て来るものの、中学校のが出てこない。歌詞さえ分かれば何とかなるはず。それで自宅に戻ってネットで確認したところ、歌まで流してくれます。自宅でも懐かしい母校の校歌を確認できるとは、何とも便利な世の中になったものです。ただ、かつて中学校の合唱ではそれなりに名を馳せたはずの母校ですが…私なんかが在籍していた頃と比べても歌う側のレベルがおちたような?・・・なんて書いたら怒られそうな昨今ですが、うーん。公立にしては合唱祭がメインの特徴ある校風だったんだけどなぁ。まあ、中学生らしい味があっていいんですが。…卒業生なんだからこれくらいは、書いてもいいよねぇ?
(2010-01-24)